2014年11月6日木曜日

パグララン村と村長

翌朝、やはりタクシーをやとい、南へ二〇キロほど走って昔なじみのパグララン村の村長M氏宅をO記者と訪れた。パグララン村は、一九七六~七七年に、私か初めて泊まりがけで調査を行ったなつかしい村だ。この村のある南了フン地方は、オランダ植民地時代からサトウキビ栽培で富を築いた豊かな農民たちがいることで知られてきた。また、グスードゥル現大統領がかつて議長をつとめていた伝統主義イスラム宗教団体ナフダトゥルーウラマ(以下、慣例によりNUと略記)が、一九五〇年代から深く根を張ってきた地域でもある。

この村を訪れて最初に泊まり込んだのは、当時まだ、水道はもちろん電気や電話も入っていなかったM氏宅であった。M氏もまた、サトウキビの栽培で財をなした地主一家の二代目だ。日が暮れて夕食が終わると、応接間の石油ランプのほの暗い明かりの下でM氏とよく雑談を交わした。M氏はまだ三〇歳代の青年村長、私もまだ三〇歳に届かぬころのことだ。

M氏が好んで私に語ったのは、イスラム教における神(アラー)の不可視性と絶対性、かつて一九六〇年代前半にこの地方でも勢いをふるった共産主義の危険性、といったやや紋切り型の宗教・政治論だった。六〇年代半ばに東ジャワではNUに代表されるイスラム勢力と共産党が激突し、流血の抗争が繰り返されたことは、私も書物から得た知識でよく承知していた。そして、共産党をかばい続けた当時の大統領スカルノ(東ジャワ出身)が失脚を余儀なくされ、陸軍幹部のひとりだったスハルト(中ジャワ出身)にとって代わられたことは、日本でも広く知られていた。当時、M氏も村のNUの青年行動隊員のような位置にいたという。共産党との対決は、彼にとってまだ生々しい青春の記憶であるらしかった。当然、彼はスカルノのこともきらいだろうな、と私は推測した。

そんな雑談をもう何日も繰り返したある晩のことである。どの村の村長宅でもそうであるように、応接間の壁には現職正副大統領の写真が額に入れて飾られていた。突然、その大統領の写真を指さしてM氏が私に尋ねた。「インドネシアで最も偉大な人物は、あの人だと貴方は思うかい」。とっさのことで答えあぐねた私に、彼はにやりと笑ってこうたたみかけた。「いちばん偉い人物の写真を、今もってきて見せてあげよう」。

奥の寝室に消えた彼は、大事に隠し持っているらしい、やはり額入りの写真を抱えて戻ってきた。なんと、すでに故人のスカルノであった。「今の大統領なんて、この人とは比べものにならない。よく覚えておきなさい」と言う、そのときのM氏の口ぶりは、二〇年以上たった今も私の耳にこびりついている。インドネシアの政治、社会のあり方を考えるとき私にとって不動の原点のひとつとなる、鮮烈な体験であった。

2014年10月6日月曜日

主体の喪失可能性を意味する

いやもっと言えば、本当はむらの主体性の喪失をこそ、人々はみな恐れているのだ。ここで主体としてのむらについて、より突っ込んだ議論を行っておく必要がありそうだ。しばしば言われるように、日本の社会においては、欧米社会に比べて個の主体性が弱い分、個人よりも集団=社会的単位が主体性の源泉になってきた。日本では、どうも本来、個人よりも、こうした集団の方が重要なのだ。集団を通じることによってのみ、主体となりうると言うべきかもしれない。その集団の核にあるものとして、戦前までの社会学では、「家」「村」および「国」がとくに取り上げられてきた。これに加えて戦後は、「企業」が擬似的な家として広く展開されている。

むろん、むらむらや家々の間には、過去の歴史的経緯や分岐の関係などから、本家と分家のような非対称の関係がっくられもする。しかしまた同時に、それらが主体である以上、その意志決定権は、基本的にはそれぞれに独立し、尊重されてもきた。こうした考え集団中心主義とでも言おうかは、現在でも日本の基本的な社会原理として生きており、人口の多寡にかかわらず、同格の社会的主体は、同等の権利を持ち、例えば都道府県の間、市町村の間には、それぞれを尊重する態度が貫かれてきた。むら(集落)もまた、一つ一つが独立した主体である。そのむらの限界化・消滅可能性の問題とは、それゆえ、主体の喪失可能性を意味することになる。

そして主体であること、自分自身で自分自身を決定することができることは、「よく生きること」と深く関わる問題だから、それを維持しようという努力があるのも当然のことであり、また、むやみにその解消を他の主体が口にするべきでもないわけだ。ましてそれを、別の主体に吸収統合してしまったのでは、問題の解決とはほど遠いことになる。社会的主体はあらためでそれをIからつくり出すのは非常に難しく、現在では企業や非営利団体などの法人くらいしかない。企業でさえ、ある業種の形成にはそれに必要なタイミングがあり、機会を逃せば新たな主体は生まれない。例えば、この日本で新しい自動車生産企業が、今後、一から形成される可能性はほぼないだろう。そして同様に、我々はもはや、「新しいむら」を興す能力をすでに持たないようだから、いまあるむらだけを前提に、今後の農山漁村の姿を考えていかねばならないことは確実だ。

とはいえ、社会的主体の間には、横の連携とともに、縦の関係もある。そして、日本社会のもう一つの大きな特徴は、この縦の関係が支配-従属の関係を含み、上位と下位がヒエラルキー状に構成されている点にある。各集落(むら)にとって、すぐ上位の主体は、基礎自治体(市町村)である。そして基礎自治体はさらにその上に、県、国をおいてきた。こうした上位機関のうち、暮らしのことを一緒に考え、暮らしの側から社会を変えていく力になるのは、やはり市町村などの基礎自治体である。県や国が、集落にとっては全くの外側に位置するのに対し、基礎自治体だけが唯一、暮らしの側から発想し、集落とともにものを考え、実践できる、身内としての上位主体である。言い換えれば、暮らしや集落の側からすれば、最も身近な公であり、クニだと言えよう。

しかしながら、基礎自治体と、集落・住民との間には、戦後の歴史の中で、単なる支配従属を超えた、非常に強い統制と依存の関係が形成されてもきた。かつ、自治体は自治体でこれまで、その住民や暮らしよりもむしろ、さらに上位にある県や国の顔色ばかりをうかがい、地域住民の自治体という面は薄れて、国や県の立てた政策を現場で請け負う、下請け行政機関に甘んじてきた。二〇〇〇年代の構造改革で、こうした関係は大きく変わらざるをえなくなっている。いま各地の過疎自治体で行われている、集落や住民との間の真のパートナーシップの模索は、せっぱ詰まってきた基礎自治体の現実を表している。筆者はこれを、上位の県・国との安定的な関係が望めなくなってきた中で、自治の原点に戻って始まる、暮らしの側からの地域政策形成の端緒と見たい。鯵ヶ沢町の例をはじめ、本書で示した各地の事例でもそうした切迫感がひしひしと伝わってきたはずだ。