2013年12月25日水曜日

詐欺の標的にされた新銀行東京

「取引先の信用金庫に行ったら、お宅には同じサービスをするから新銀行に行かなくていいよと言われました」「三、四年前に来てくれたら、結構借りたけどね」中小企業経営者たちの反応は、冷めたものばかりだった。時は二〇〇五年。銀行を取り巻く環境に変化が起きていた。小泉・竹中時代の金融改革で、あれだけ不良債権処理に苦しんでいた大手銀行が体力を回復し、中小企業の融資に乗り出していた。石原知事が心を痛めた「貸し渋りの時代」は終わっていたのだ。存在意義を問われかねない事態に直面した仁司前代表は、行員たちに対して、踏み込んだ方針を打ち出す。

「優良な企業は、いろいろな銀行との金利競争があり、そこを攻めてもうちとしては勝てない。だが、リスクの多い人がまだたくさん残っているので、そのリスクを見極めていく。裏を返せばリスクを取っていきますよ、ということです」結果として、新銀行東京の融資先は、一般の金融機関が避けるようなリスクの高い企業が増えていった。そうした融資先が現在どうなっているのか、幾つかの所在地を訪ねた。コンビニエンスストアだったはずのところは、すでに姿を消していた。別のオフィスでは、郵便ポストがガムテープでふさがれ、人の気配もない。新銀行東京の融資先は、破たんする企業が続出していたのだった。経済ジャーナリストの須田慎一郎さんは、新銀行東京の審査に問題があったと指摘する。

「スコアリングモデルだけで、企業の経営実態を正しく把握することは不可能だと思いますね。表面上の数字だけに頼って、目利きをしないで融資した場合、その融資が失敗に終わる、つまり、不良價権化する確率は非常に高くなる」ずさんな融資-。その甘い審査は、詐欺グループにまでつけ込まれていた。詐欺グループの事情に詳しいという人物が、匿名を条件にその手口を語ってくれた。「新銀行東京という。のは、非常にターゲットにしやすい銀行ですね。休眠会社をまた起こして企業が働いているように見せるわけですよ。その後、借り入れるわけだけど、融資が下りて入金があったら、即、会社は倒産ですね」架空の会社をでっち上げ、融資を引き出した後、会社を倒産させて、借金を踏み倒すというのだ。

「返すつもりはなくて、借りているわけですね。うるさい銀行は取り立てに来ますけど、新銀行東京の場合はほとんどない。チェック機能がない。追いかけてこないですね」危険な企業に繰り返されたずさんな融資。業務開始から三年間で、融資先の二三四五社が破たんし、焦げ付き額は二八五億円に達した。そして累積赤字は年々増え続け、一〇一六億円にまで膨らんでしまう。石原知事が動いたのは、二〇〇七年六月のこと。仁司代表執行役を退任させるなど、人事を刷新したのだ。それにしても仁司前代表はなぜ、無謀な融資拡大路線をとり続けたのか。背後にあったとされるのが、東京都が新銀行設立に当たって基本計画としてまとめたマスタープランだ。マスタープランの冊子の表紙をめくると、東京都知事「石原慎太郎」と達筆なサインが記されている。

そのなかには、「融資保証残高、三年間で九三〇〇億円。中規模の地方銀行クラスを目指す」など過大と言わざるを得ない目標が列挙されていた。マスタープランの策定に東京都の責任者として関わったのが、新銀行東京の新しい代表執行役に就いた津島隆一氏だった。その津島代表を直撃取材した。マスタープランに問題はなかったのか、そして経営危機に対する東京都の責任をどう考えるのか。「計画を立てても、金融環境が変われば、競争してやってますから、これは動くわけです。その先は経営をした方にお任せするということしかないと思う」一方、仁司前代表は二〇〇八年三月、テレビ東京の電話取材に対して、次のように答えた。

2013年11月5日火曜日

国の奥庭と自動車道路

その頃国王が参拝することになり、これを機会に道を舗装しようと道路局が工事を始めた。それを聞きつけた国王は、それを中止し、実際に自らお参りするときには、幹線道路に車を止め、そこから徒歩で往復した。この件が象徴するように、国王は伝統的な生活形態を尊重し、利便さだけのために自動車道路を建設することをよしとしなかった。チメーラカンヘの道は、今でも舗装されておらず、誰もが歩いてお参りしている。ブータンの東北端にブムデリンという開けた谷があり、中央ブータンのブラックーマウンテン山系のポプジカと並んで、世界的に珍しいオグロヅルの越冬地として有名である。

ここは自動車道路の終点タシーヤンツエから歩いて二時間ほどであるが、途中の地形からして自動車道路の建設は、工費の面でも、技術的にも何ら問題がない。それ故に住民は、すでに自動車道路が通じて、近代化・経済発展の恩恵に浴した他の地域に取り残されないように、自分たちの谷まで自動車道路が延びることを一九八〇年代に嘆願し、予算も通った。この時点で、国王は自ら徒歩でこの谷を初めて訪れ、住民と直接話し合った。国王は、自動車道路が谷の住民にとって今本当に必要かどうかを、もう一度住民が協議するよう諭した。そして、国王としては、国全体の環境という観点から、ブムデリンをブータンの奥庭として現在あるがままの姿で残したいこと、そして教育、医療、通信を始めとする生活のいかなる分野でも、自動車道路がないことで、他地域に比べ不利になったり、遅れをとることがないよう政府に措置を講じさせることを約束した。

その結果、住民は自動車道路建設の嘆願を取り下げた。これもまた、ブータンの近代化のあり方を象徴している。ドルジエーワンモ・ワンチユック王妃は前記の自著で、こう述べている。「ブータンは、外の世界や二一世紀を寄せっけないようにしているわけではけっしてありません。わたしたちは繁栄を欲していますが、今まで育まれてきた伝統と文化を犠牲にすることはできません。わたしたちは近代技術の恩恵を蒙りたく思っていますが、それはわたしたち自身のペースで、わたしたちの必要に応じて、わたしたちがそうすべきだと思った時に実施しています。ですから、飛行場を建設し、定期飛行機便を就航させたのも一九八三年になってからですし、一九七四年に二百人だった観光客を、二〇〇五年には一万四千人にと徐々に増やしただけです。テレビ放送も一九九九年になってからしか導入しませんでした」

二〇〇七年現在、ブムデリンの入り口までの自動車道路は建設中である(ただし、谷の中までの建設計画はない)。それは、開発計画の決定権を持つブムデリンの住民自身が「わたしたち自身のペースで、わたしたちの必要に応じて、わたしたちがそうすべき時」だと思ったからである。同様なことは、プナカの北に位置するガサ県に関しても言える。ガサは県内全域三五〇〇メートルを超える高山地帯で、’住民も少なく、ほとんどが牧畜民である。自動車道路の建設は、不可能ではないが、工費は巨額である。しかし何よりも、自動車道路が地域住民にもたらす恩恵がほとんど考えられない。言ってみれば、建設することだけが目的の自動車道路となり、無駄としか思えない。

それ故に、住民との話し合いの結果、ガサ県は全国二〇県のうち、自動車道路がない県として残すことになった。もちろんブムデリン同様、教育、医療、通信といった生活にとって必須の分野では、他県とくらべて遅れの出ないように最大限の配慮がなされている。さらには、この高山地形を積極的に活用して、県として経済的にも発展する可能性が探られた。牧畜の効率化、畜産物の生産性の向上と並んで、奨励されたのが薬草・薬剤の栽培、採取である。ブータンは、チベット文化圏では古来「薬草の国」として知られているように、汚れのない高山地帯に生育する豊富な種類の薬草で有名である。


2013年8月28日水曜日

やんばるの森の魅力に吸い寄せられて

味はというと、それほど美味しいものではなかった。ただ、戦後の食糧がなかった時代は重宝したそうである。そのことを「うちな~噺家」の藤木勇人さんに話をすると、「ソレガドウシタ」つて顔をされ、私もよく食べましたよ、と言われたときは返す言葉がなかった。ある年の二月、知人に誘われて八重岳の桜を見に行った。沖縄の桜は、本土の桜のように花びらがひらひらと散らない。椿のようにポトリと落下するそうである。昔の武士がこれを知ったら、さぞかし驚いたことだろう。その帰り際に、なぜか無性にやんばるの森を歩いてみたくなった。

やんばるはいつ行っても楽しい。昔は本部や名護あたりもやんばると呼ばれたが、今は国頭村、東村、大宜味村あたりを指すようだ。たっぷり時間があるとき、私はたいていレンタカーを借りてやんばるに向かう。やんばるの森で車を停め、腰を下ろして森の空気に浸ったり、スダジイ(イタジイ)、オキナワウラジロガシなどの間を彷徨しながら、さまざまな森の声を聞く。気根を垂れるガジュマル、ウロコ模様の幹を持つヒカゲヘゴ、なかでもスダジイは二〇メートルほどの高さまで生長する。ここにはそうした植物がうっそうとした照葉樹の森をつくり、たくさんの生き物をはぐくんでいる。

ちなみに私はこの森で、天然記念物のヤンバルクイナと二度ほど遭遇したことがある。最初は枯れ木の上に腰を下ろしておにぎりを食べていたとき。二度目は森に少し入り、ただぼんやりと木々を眺めていたときだった。十数メートル先を横切っただけだが、動きがのろのろとして何ともユーモラスだった。ヤンバルクイナはつがいで行動するのか、二度ともペアだった。安田にある「やんばるホテル&ファーム」に泊まることもある。このホテルは、ベトナム社会主義共和国と沖縄の友好を祈願し、ベトナムの木材を使って、ベトナムの伝統建築様式で建てられたそうだ。ただ、当時は何となく落ち着かず、一度利用したきりだったが、経営者が変わってから何度か訪れている。裏の畑で食材となる野菜を植えたり、それ以外の食材は地元の安田産にこだわっている異色のホテルだ。

翌日は隣の「安波」という集落の奥地にある「タナガーグムイ」に行った。「タナガー」がテナガエビで「グムイ」が泉のことだから、テナガエビが棲む泉といった意味だろう。駐車場に車を止めてロープをつたいながら降りていくのだが、肉体的にはきついのに、シダ類などの植物群落のなかを通っていく感覚は気分がいい。売店も自動販売機もレストランも何もなく、実に爽やかなのである。下にたどり着けば小さな滝と淵を目にする。この淵だったかどうか記憶が定かではないが、夜になると金髪の娘が全裸で泳いでいるのを見たという噂が立ったそうだ。残念ながら私はまだ目撃していない。

もし沖縄の観光資源を三つ挙げよと言われたら、「やんばるの森」を筆頭に、「城」と「古酒」(泡盛を寝かしたもの)を挙げる。古酒は私の個人的な趣味だからおおっぴらには言えないが、市場には出回らない「古酒」を探して、舌の上に一滴垂らしたときの至福感は喩えようがない。世界中で絢爛と文化が花咲いたところでは必ずうまい酒がある。酒はその土地の文化を蒸留して生まれた液体なのだ。それは泡盛も同じだろう。泡盛でも、とりわけ「古酒」は沖縄文化そのものであると思う。古酒といえば、本部町の謝花良政さんである。謝花さんの本業は自動車修理工場のオーナーなのだが、私か知っているのは裏の顔である。といってもそのスジの人ではない。古酒づくりでは、おそらく沖縄随一と言ってもいいほどの理論家なのである。

ちょっと寄り道して謝花さんのことを語りたい。謝花さんは戦後すぐ自動車修理工場を開いた。ところが、開業してわかったのだが、当時、本部町一帯にはトラックを含めて車と呼べるようなものは数台しかなったそうである。そこで仕方なく、車の修理から馬車の修理に変えた。工場は馬糞の臭いで充満していたという。謝花さんは、工場経営のかたわら、趣味で古酒づくりをはしめた。明日のご飯をどうするかという時代に、古酒をつくろうというのだから、相当変わった人だったのだろう。謝花さんの家の床下に、畳一畳ほどの小さな酒蔵がある。そこには当時仕込んだ古酒が今も眠っている。ご相伴にあずかったのが、瓶に仕込んでから五一年(〇七年当時)も経った超がつく古酒だったが、甕のふたをとった途端、芳醇な甘い香りが部屋にぱっと広がり、思わずうっとりしてしまうほどだった。

2013年7月4日木曜日

今世紀前半の日本の企業社会の最大の問題

営利で動く企業が、しかも最近は四半期決算次第で株主から締め上げられるぐ場のその経営行の方々が、いくら長期的には利益に資するからといって、この不況下で、足元では単なるコストにはかならない若い世代の人件費を増やすわけがないですよね。本当は団塊の叫代の退職で自動的に人件費総額が下かってきますから、その一部を若者に同してもコストの純増にはならないのですが、普通の会社は。種の条件反射で、その分までもコストダウンをしてしまうでしょう。そして商用をさらに値下げして「消費者に奉什」する。ですが若者を安い給料で使うことで、日本の消費者の使えるお金がどんどん減っていき、巡り巡ってあな九の売上も減っていくのです。避けられないことなのでしょうか。‐本企業はコストを増やすことには何でも反対なのでしょうか。

であればたとえば、なぜこれほどまでに多くの企業が、「エコ」「エコ」と唱えているのでしょう。ISOの取得も地方の意欲ある中堅中小企業にまですっかり行き渡った感がありますが、これって目先で考えれば単にコストを増やす行動ですよね。そうなんです。もし日本の企業がどれも近視眼で足元の利益を極大化することしか考えていないのであれば、こんなに皆がお金をかけて、ここまで環境に配慮した企業活動をしているはずはありません。では彼らはなぜそこまで環境配慮にコストをかけるのか。企業イメージアップという目的もありましょうが、それ以上に人きかったのは公害の経験なのではないでしょうか。

高度成長期に多くの企業が、足元の利益を長期的な環境保全についつい優先させてしまった結果、多くの地域で環境が甚大に損なわれてしまった。それどころか健康や人命を損なう例まで続出した。そのマイナスが余りに人きく、誰の目にも明らかになったために、「環境には配慮しよう、目先の利益を少々犠牲にして環境にお金をかけることは、社会的に必要だし株主も許す」という認識が行き渡ったのです。七〇代にはまだ、「環境を利益に優先するなんてなんという青臭い議論だ」と訳知り顔に話す政財界人がいたに違いない。ですが今や、この厳しい不況下ですら「環境関連のコストを削って、その分配当しています」と自慢する企業は見たことがない。実際にはそういうことをやっている会社かおるかもしれませんが、そんなことは到底大に語るべき自慢のタネにはならないのです。

であればこそ、です。今世紀前半の日本の企業社会の最大の問題は、自分の周りの環境破壊ではなく内需の崩壊なのですから、エコと同じくらいの、いやそれ以上の関心を持って若者の給与をヒげることが企業の目標になっていなくてはおかしい。本当は「エコ」に向けるのと同等、いやそれ以上の関心を、若い世代の給与水準の向Lに向けなくてはおかしいのです。「人件費を削ってその分を配当しています」と自慢する企業が存在すること自体が、「環境関連のコストを削ってその分配当しています」と自慢する企業と同じくらい、後々考えれば青臭い、恥ずかしいことなのです。

そもそも内需縮小は、地球環境問題よりもはるかに重要な足元の問題ですよ。世界的な海面上昇への対処という問題なら、米国や中国に明らかにより多くやるべきことがある。なのに、そういう地球環境問題にはあれはどの関心と対処への賛意を見せる日本人が、どうして若い世代の所得の増大に関心が持てないのか。世界的な需要不足が今の地球経済の大きな問題であるわけですが、こちらはどうみても購買力旺盛な米国や中国のせいではなくて、内需の飽和している日本により大きな責任があると世界中が思っています(今般の経済危機は米国のせいだという人がいるかもしれませんが、米国の経済崩壊は、内需不足に苦しむ日本企業が米国人に借金を重ねさせて製品を売りつけ続けた結果であるということも事実です)。これに対処するのって、政府だけの責任なのでしょうか。私は政府よりも企業の方にずっと大きな責任と対処能力が、両方しっかりあると思っているのですが。



悪循環を断ち切る努力

それでは、企業に何かできるのでしょう。一言で言って、年功序列賃金を弱め、若者の処遇を改善することです。特に子育て中の社員への手当てや福利厚生を充実すべきなのです。彼ら若い世代にはたとえ大企業の社員であっても金銭的な余裕はありませんから、手取りが増えた分は使ってくれますし、休みが増えた分は消費活動にも回してくれます。でもそうはいってもよほど多くの企業が一斉に取り組まない限り効果は出ませんし、取り組んでから効果が出るまでにも少々時間はかかります。世の中全体が動き出せばいいのですが、少数の企業が気づいているだけでは典型的な「鶏が先か卵が先か」の状態を抜け出せません。しかもそのためのイニシャルコストはどうやってカバーするのでしょう。

一義的には、現在進行しつつある団塊の世代の退職によって結構な額が浮いてくる人件費を、なるべく足元の益出しに回さずに(利益は出せば出すほど配当などの形で、あなたの商品を買いもしない高齢富裕層に還元されてしまいます)、若い世代の人件費や福利厚生費の増額に回すということです。先ほど一部上場製造業の決算の合計の数字をお見せしましたが、九六-〇六年度の一〇年間に従業員数が二割減り、少々のベースアップはありますが人件費総額も一四%減っている。これを減らさない、とはいかない場合でも何とか数%の減少に抑えるように努力することが、自助努力の方向なのです。

「給与の増加は生産性の範囲内にとどめておかないと、日本の国際競争力が失われるしインフレになるなどの副作用が生じるぞ」という反論をいただくことがあります。人口の波に関する認識をまったく欠いたままマクロ経済学の一般論だけで考えるとそうなるわけですが、今後五年以内に団塊世代が六五歳を超えて退職して行く日本では、国民の受け取る人件費総額は増加しようがありません。若者一人当たりの給与の増加=国民の受け取る人件費総額の増加とはならないのです。そのような状況下では、「給与の増加は生産性の範囲内にとどめておかないといけない」のではなく「一人当たりの給与を増加させて人件費の総額を維持していかないと、内需が増加せず、生産性も増加しない」わけです。

日本企業は、魅力的な商品の工夫・日本人一人当たりの購入回数の増加・売上の維持上昇・勤労者への配分の増加・各社が同じ行動を取ることによる内需全体の拡大・さらなる売上増加、という好循環を、手の届くところから少しずつ実現していくしかありません。賃上げが先か、売上拡大が先かではありません。賃上げ・売上拡大・賃上げの循環を、まずは小さくてもいいから生み出し、それをゆっくりと大きくする努力、そのためのビジョンが必要なのです。「赤字で苦しんでいるのに、そんなことなどできっこない」と思われますでしょうか。でもそもそも御社が赤字で苦しんでいるのも、日本の企業社会がお互いに若者を低賃金長時間労働で締め上げて、内需を大幅に損なってきたからなのです。さらには今後四半世紀でさらに生産年齢人口が二五%も減っていくわけですから、どこかで現役の給与水準を上げていかなくては、内需=あなたの売上は防衛できません。

どこかで給与減・売上減・給与減という悪循環を断ち切る努力をしない限り、御社は赤字体質から永遠に脱却できないのです。「景気回復」は自助努力なしの他人任せではやって来ません。そこを避け、非正規労働者を使うことでコストダウンし、現役世代向け商品を叩き売ってからくも生き残りを図っている企業は、結局国内市場の果てしない縮小を促進するだけです。「国際競争力維持のために」と唱えつつ、内需縮小の火に油を注いでいる多くの企業の方々。目先の状況だけ考えれば無理はない行動と同情はしつつも、あなたのやっていることは緩慢な自殺にほかなりません。それに気づかないのはビジョン喪失以外の何物でもないのではないでしょうか。個々の企業が自分で気づいて行動を変えない限り、「景気回復」はないのです。

2013年3月30日土曜日

地域の行事のスケジュール

今森光彦さんは、長年にわたって世界中の自然を撮りつづけてきました。現在は生まれ故郷の滋賀県に住み、ナチュラリスト、ネイチャー写真家として、国内ばかりではなく海外でも高く評価されています。今森さんは近くの里山や雑木林をフィールドに、美しい風景と、そこに生きる小さな命の息づかいを丹念にカメラに納めています。テントウ虫の孵化を撮るのに四時間もねばって変人扱いされたり、栗林で数百匹ものコオロギを採集していたところ、栗泥棒と間違えられたこともあるといいます。

川田勘四郎さんは蔵王の樹氷を、もう四十年も撮りつづけています。蔵王に生まれ育った川田さんは高校時代に山岳部に入り、そこでメモ代わりにカメラを持つようになったのが、写真との出会いだったといいます。蔵王の地蔵山頂の西側一帯に広がる樹氷群は、日本海から吹き上げてくる湿気を持った水蒸気がアオモリトドマツにぶつかり、それが氷着してできるめずらしい自然現象で、世界中でも蔵王でしか見られないそうです。

斜面に広がる樹氷は、まるで白い純毛の防寒具をスッポリとかぶった人間群像のようで、実に不思議な光景です。いまはロープウェイを乗り継げば、三十分たらずで標高千六百メートルの樹氷原まで行くことができますが、川田さんが樹氷を撮り始めた四十年前は、雪をかきわけながら二時間半かけて、ようやく辿り着いたといいます。

積雪ニメートル、マイナス十度を超す樹氷原を、スキーをはき、十二キロのカメラ機材を背負って、一日十時間は歩き回るといいます。それでも、「樹氷は気温が低いほどきれいなので、寒いほどうれしい」とおっしゃる。特に魅せられるのが、光が射し始める早朝と陽が沈む直前の斜光線だといいます。樹氷が風を切る音はとても神秘的に聞こえるそうで、写真には写らないが、これからの研究課題にしたいとも言っています。

野鳥の写真を趣味にしている人たちは、近くの川や池に集まってくる水鳥を撮っているうちに病みつきになった、という人が多いようです。何度も通っているうちに、偶然、空飛ぶ宝石カワセミの飛翔を目にし、やがて漁をする場所を発見、そこにカメラを据えて張りつくようになる。釣り人が秘密のポイントを持つのと同じで、自分だけの狩り場を見つけたのです。フィールドを持ちたいけど、どこにあるのか見当がつかないという方は、あなたの住んでいる街をもう一度、よく調べてみてください。全国に誇れる名勝や名刹、家並はなくても、古くから伝わるお祭りや独特の風習、行事が必ずあるはずです。村おこし、街おこしのイベントもあるかもしれません。まずは、そんなところから撮ってみたらいかがでしょう。

地域の行事のスケジュールは、どこの市町村の広報課でも親切に教えてくれるはずです。最寄りの駅でも、さまざまなイベント情報を掲載したパンフレットが手に入るでしょう。わたしが利用している私鉄の鉄道カレンダーには近郊の祭りや行事がもれなく記載されているので、撮影スケジュールをたてるのに重宝しています。「祭り」がテーマなら、初回はうまくいかなくても、年中行事ですから、必ず翌年があります。カメラポジションからレンズや三脚などの装備、フィルムにいたるまで、年を追うごとに工夫が凝らされていくことでしょう。祭りの歴史や意義に詳しくなるにつれ、きっと目のつけどころも変わってくるはずです。