2014年12月5日金曜日

ヒンドゥー原理主義

『現代インドの展望』古賀正則、内藤雅雄、中村平治編岩波書店石器、広大な国土に多様な人種、言語、力-スト、文化的伝統からなる人間集団を膨大に擁するインドは、それ自体がさながら一つの世界である。独立以来、インドが多文化主義を国家統合の原理とし、この原理の制度化に最大の努力を傾けてきたのはそれゆえである。

ヒンドゥー教徒が全人口の八割をこえるものの、ヒンドゥー教は国教ではない。セキュラリズムすなわち宗教と政治の分離が国是とされ、マイノリティーの権利擁護をもって共生的な多元社会の創出が求められてきた。強力な労働運動や高組織率の農民組合運動なども、他の開発途上国に例をみない。普通選挙にもとづく代議制、共和制下の連邦制国家、インドが「世界最大の民主主義国家」だといわれるのもゆえのないことではない。

錯綜した政治文化的世界インドの民主主義が、時にポピュリスム(大衆迎合主義)、時に強権主義の攻撃を受けて順調には進んでこなかったのも無理はない。本書はその主題の一つに、苦難に満ちたインド型民主主義をさらに後退させる勢力として急浮上したヒンドゥー原理主義運動のありようを取り上げ、インド政治の危機の諸相を描写している。

ヒンドゥー原理主義を標榜するインド人民党(BJP)がこの国最大の政党として登場した事実を見据えて、内藤雅雄氏は「多様で複合的なインドを一枚岩的なヒンドゥー社会として捉え、ヒンドゥー文化の絶対性を説くことで、他の宗教コミュニティ、特にムスリムーコミュニティヘの対決とその排除を公然と表明するこの勢力の姿勢は、民主主義へのあからさまな挑戦である」と述べる。そしてこの挑戦は「半世紀におよぶインド型民主主義が築いた最も良質な部分」を侵害する危機的状況だと中村平治氏はいう。本書はインド社会の生々しい現実全局度の水準を保ちながら伝えている。

アジアの経済的成功を奇跡とみなす羨望のまなざしが、いつの間にやら嫉妬の心情へと急変したのであろうか。誰もが「ダイナミックーアジア」のことを千篇一律のごとくに論じる饒舌に飽き飽さして、このあたりでバラ色のアジア論に冷や水でもかけてやりたくなったのであろうか。アジア通貨・金融危機の現実を目のあたりにして、アジア高成長の時代は終焉してしまったかのようなセンセーショナルな報道が相次いでいる。先だってまでアジア謳歌の報道に熱心であった同じジャーナリズムがである。

2014年11月6日木曜日

パグララン村と村長

翌朝、やはりタクシーをやとい、南へ二〇キロほど走って昔なじみのパグララン村の村長M氏宅をO記者と訪れた。パグララン村は、一九七六~七七年に、私か初めて泊まりがけで調査を行ったなつかしい村だ。この村のある南了フン地方は、オランダ植民地時代からサトウキビ栽培で富を築いた豊かな農民たちがいることで知られてきた。また、グスードゥル現大統領がかつて議長をつとめていた伝統主義イスラム宗教団体ナフダトゥルーウラマ(以下、慣例によりNUと略記)が、一九五〇年代から深く根を張ってきた地域でもある。

この村を訪れて最初に泊まり込んだのは、当時まだ、水道はもちろん電気や電話も入っていなかったM氏宅であった。M氏もまた、サトウキビの栽培で財をなした地主一家の二代目だ。日が暮れて夕食が終わると、応接間の石油ランプのほの暗い明かりの下でM氏とよく雑談を交わした。M氏はまだ三〇歳代の青年村長、私もまだ三〇歳に届かぬころのことだ。

M氏が好んで私に語ったのは、イスラム教における神(アラー)の不可視性と絶対性、かつて一九六〇年代前半にこの地方でも勢いをふるった共産主義の危険性、といったやや紋切り型の宗教・政治論だった。六〇年代半ばに東ジャワではNUに代表されるイスラム勢力と共産党が激突し、流血の抗争が繰り返されたことは、私も書物から得た知識でよく承知していた。そして、共産党をかばい続けた当時の大統領スカルノ(東ジャワ出身)が失脚を余儀なくされ、陸軍幹部のひとりだったスハルト(中ジャワ出身)にとって代わられたことは、日本でも広く知られていた。当時、M氏も村のNUの青年行動隊員のような位置にいたという。共産党との対決は、彼にとってまだ生々しい青春の記憶であるらしかった。当然、彼はスカルノのこともきらいだろうな、と私は推測した。

そんな雑談をもう何日も繰り返したある晩のことである。どの村の村長宅でもそうであるように、応接間の壁には現職正副大統領の写真が額に入れて飾られていた。突然、その大統領の写真を指さしてM氏が私に尋ねた。「インドネシアで最も偉大な人物は、あの人だと貴方は思うかい」。とっさのことで答えあぐねた私に、彼はにやりと笑ってこうたたみかけた。「いちばん偉い人物の写真を、今もってきて見せてあげよう」。

奥の寝室に消えた彼は、大事に隠し持っているらしい、やはり額入りの写真を抱えて戻ってきた。なんと、すでに故人のスカルノであった。「今の大統領なんて、この人とは比べものにならない。よく覚えておきなさい」と言う、そのときのM氏の口ぶりは、二〇年以上たった今も私の耳にこびりついている。インドネシアの政治、社会のあり方を考えるとき私にとって不動の原点のひとつとなる、鮮烈な体験であった。

2014年10月6日月曜日

主体の喪失可能性を意味する

いやもっと言えば、本当はむらの主体性の喪失をこそ、人々はみな恐れているのだ。ここで主体としてのむらについて、より突っ込んだ議論を行っておく必要がありそうだ。しばしば言われるように、日本の社会においては、欧米社会に比べて個の主体性が弱い分、個人よりも集団=社会的単位が主体性の源泉になってきた。日本では、どうも本来、個人よりも、こうした集団の方が重要なのだ。集団を通じることによってのみ、主体となりうると言うべきかもしれない。その集団の核にあるものとして、戦前までの社会学では、「家」「村」および「国」がとくに取り上げられてきた。これに加えて戦後は、「企業」が擬似的な家として広く展開されている。

むろん、むらむらや家々の間には、過去の歴史的経緯や分岐の関係などから、本家と分家のような非対称の関係がっくられもする。しかしまた同時に、それらが主体である以上、その意志決定権は、基本的にはそれぞれに独立し、尊重されてもきた。こうした考え集団中心主義とでも言おうかは、現在でも日本の基本的な社会原理として生きており、人口の多寡にかかわらず、同格の社会的主体は、同等の権利を持ち、例えば都道府県の間、市町村の間には、それぞれを尊重する態度が貫かれてきた。むら(集落)もまた、一つ一つが独立した主体である。そのむらの限界化・消滅可能性の問題とは、それゆえ、主体の喪失可能性を意味することになる。

そして主体であること、自分自身で自分自身を決定することができることは、「よく生きること」と深く関わる問題だから、それを維持しようという努力があるのも当然のことであり、また、むやみにその解消を他の主体が口にするべきでもないわけだ。ましてそれを、別の主体に吸収統合してしまったのでは、問題の解決とはほど遠いことになる。社会的主体はあらためでそれをIからつくり出すのは非常に難しく、現在では企業や非営利団体などの法人くらいしかない。企業でさえ、ある業種の形成にはそれに必要なタイミングがあり、機会を逃せば新たな主体は生まれない。例えば、この日本で新しい自動車生産企業が、今後、一から形成される可能性はほぼないだろう。そして同様に、我々はもはや、「新しいむら」を興す能力をすでに持たないようだから、いまあるむらだけを前提に、今後の農山漁村の姿を考えていかねばならないことは確実だ。

とはいえ、社会的主体の間には、横の連携とともに、縦の関係もある。そして、日本社会のもう一つの大きな特徴は、この縦の関係が支配-従属の関係を含み、上位と下位がヒエラルキー状に構成されている点にある。各集落(むら)にとって、すぐ上位の主体は、基礎自治体(市町村)である。そして基礎自治体はさらにその上に、県、国をおいてきた。こうした上位機関のうち、暮らしのことを一緒に考え、暮らしの側から社会を変えていく力になるのは、やはり市町村などの基礎自治体である。県や国が、集落にとっては全くの外側に位置するのに対し、基礎自治体だけが唯一、暮らしの側から発想し、集落とともにものを考え、実践できる、身内としての上位主体である。言い換えれば、暮らしや集落の側からすれば、最も身近な公であり、クニだと言えよう。

しかしながら、基礎自治体と、集落・住民との間には、戦後の歴史の中で、単なる支配従属を超えた、非常に強い統制と依存の関係が形成されてもきた。かつ、自治体は自治体でこれまで、その住民や暮らしよりもむしろ、さらに上位にある県や国の顔色ばかりをうかがい、地域住民の自治体という面は薄れて、国や県の立てた政策を現場で請け負う、下請け行政機関に甘んじてきた。二〇〇〇年代の構造改革で、こうした関係は大きく変わらざるをえなくなっている。いま各地の過疎自治体で行われている、集落や住民との間の真のパートナーシップの模索は、せっぱ詰まってきた基礎自治体の現実を表している。筆者はこれを、上位の県・国との安定的な関係が望めなくなってきた中で、自治の原点に戻って始まる、暮らしの側からの地域政策形成の端緒と見たい。鯵ヶ沢町の例をはじめ、本書で示した各地の事例でもそうした切迫感がひしひしと伝わってきたはずだ。

2014年9月5日金曜日

大恐慌をもたらした諸悪の根源

日本の自動車メーカーが日米の部品メーカーから平等に仕入れなかったとしても(オハイオ州にあるホンダの工場では、一九八九年一年間に使った部品のうち、アメリカのメーカーから仕入れたのはわずかヱハパーセントにすぎなかった)、あるいは日本の部品メーカーか品薄の部品を日本企業に優先的に納入したとしても(アメリカのエレクトロニクスーメーカーが部品の納入に際して日本企業にくらべて不利な待遇を受けたとして日本の部品メーカーを訴え、アメリカの会計検査院もこれを支持した)、日本企業は差別をしているつもりはない。誰でもやるように、身内を大事にしているだけなのだ。

企業グループの一員となった企業は、事業規模と企業間の協力ではコングロマリッ卜同様の利点を得る一方で、過度の中央集権化というコングロマリットの弱点を回避することができる。系列傘下の企業は互いに刺激しあうと同時に協力しあって成長していくのである。株価を高めるのが目的ならば、企業グループは理屈に合わない。株は買いやすいほど、また買い手が多いほど、株価が上がって売り手(つまり株主)の利益が大きくなるものなのに、企業グループ外の株主にはグループ内の株主と同等の内部情報アクセスが認められないとなれば、企業グループ外から株を取得しようという意欲はそがれてしまうからだ。だが、長期的展望に立った経営、投資を第一に優先する経営をめざすならば、企業グループはまさに理屈に合っているのである。

生産者経済を志向する国では、企業グループを形成しやすい環境になっている。企業の成長を犠牲にしてでも利益をあげて配当を増やせと圧力をかける株主の声は聞こえない。一方、消費者経済を志向する国では、世論は企業グループに冷たく(ランクづけの異なる株主が平等に扱われないから)、国の政策上からも企業グループの形成は難しくなっている。たとえばアメリカでは、日本式の企業グループは反トラスト法に触れるし、ドイツ式のユニバーサルーバンキングも銀行法で禁止されている。

かつては、アメリカにも今日のドイツとそっくりな銀行を中心とする企業グループが存在した。モルガン財閥はUSスチール、インターナショナルーハーペスター、ゼネラルーエレクトリックなど四〇社を傘下におさめていた。そして、モルガンーグループ傘下の企業は、企業グループに属さない企業にくらべて高い利益率をあげていたという記録が残っている。グレートーノーザン鉄道を開設したジェイムズーヒルは、自社のいちばん速い列車を「エンパイアービルダー」と名づけている。

だが、こうした企業グループは、一九三〇年代に法律で禁止された。いわば、大恐慌をもたらした諸悪の根源として矢面に立たされた結果である。大恐慌が起きたときも、スペースシャトルが空中爆発したときも、貯蓄貸付危機に陥った現在も、世間は諸悪の根源をつきとめないと気がすまないものなのだ。で、一九三〇年代にはJ・P・モルガンという人物が諸悪の根源ということになり、モルガンの「罪」を罰するために新たな法律が制定された。今日では、大恐慌をひきおこしたのはモルガン個人の投機的行為ではなく、もっと根本的な要因かあったと考えるのが常識になっているが、当時制定された法律だけはそのまま生き残っている。

2014年8月8日金曜日

労働分配率は下げ止まる

たしかに、経営者が悪いことをしていて、それを隠匿しようとしているような状況では、透明性を求めることに意味はあるだろう。しかし、経営のプロセス全般について透明性を広範につねに求めることが、企業の長期的パフォーマンスを上げることに本当に貢献するかどうか、私は微妙な問題だと思っている。たとえば、経営統合を密かに考えている経営者が、将来への戦略を開示すべきと言われて、経営統合プランを事前に透明に語るべきだろうか。あるいは、ある役員が前任者のとった行動の結果として短期的に業績悪化した場合に、その業績の責任をとって報酬を減らされる、といういわば「けじめとしての処置」を社長がとったとする。それ自体は、あるべきことかもしれない。

しかしその「報酬削減」の事実を透明に公表することが、本当にいいことか。詳しい説明もできないままに、削減の数字だけが独り歩きして、さまざまな風評被害が起きる危険もある。もちろん、不透明を許すことによるマイナスも容易に想像できる。無能な役員が居座って、高額の報酬をもらっていることが放置される、などである。経営者のお手盛りもまた、マイナスであろう。どのような役員報酬にすべきかは、じつに状況に応じて千差万別の対応をしなければならない。そうした問題で詳しい決定。プロセスの開示を強制的に求めることは、開示後のさまざまな影響を考えると、決して得策とは言えない。開示を強制すると、ますます役員報酬を上げにくくなる方向へ作用する危険も感じる。

経営は結果責任である。役員の報酬は、企業としての結果を生み出すための経営上の手配りという経営プロセスの一部に過ぎない。その経営プロセスについて、いちいち箸の上げ下ろしを指導するようなプロセス責任の強制は、多くの場合間違っている。内部統制の強制が間違っているのと、同じ話である。役員たちは、報酬に対してではなく、経営結果に対して責任を持つべきで、その結果責任をむしろ厳しく問うべきである。

労働分配率という言葉が、新聞の経済欄に最近かなり登場する。労働分配率は、企業が生み出す付加価値のうち、人件費などとして(企業の年金負担分を含む)働く人たちに分配される金額の比率である。つまり、働く人たちの「分け前」比率というべき数字である。それが、企業が経常利益過去最高を更新する中で、過去からかなり下落し、好況と言っても上昇せずに低迷している、と報道される。それだけを聞くと、「分け前が減って可哀相なサラリーマン」というイメージをすぐに誰しも描いてしまう。

しかし、おそらくもう労働分配率は下げ止まるだろう。そして現在の水準は、長期的に日本の歴史的経緯を見ても、かなり適切なレベルだと思われる。労働分配率は人件費を付加価値で割った数字である。しかし、付加価値の定義や統計のベースの違いによって、ことなる数字が労働分配率として報告されている。ただ、どれで計算しても傾向自体は変わらない。もっとも簡単な付加価値の定義は、企業の売上げという外部からの収入から、その売上げを生み出すために企業が外部から購入したインプットの費用を差し引いたものである。購人したインプットから付加価値を生み出すために、企業はヒトとカネを使う。

2014年7月18日金曜日

進む社会福祉改革

介護保険施設や在宅サービス供給事業者には、ケアマネジャーを置くことが義務づけられています。現在まで約十六万人の人たちが資格をとりましたが、現役の看護婦など在職中の人が多く、実際にはケアマネジャーの仕事には就いていません。ケアマネジヤーの仕事が魅力的なものになるには、介護報酬の引き上げによる待遇改善に加えて。良質なサービスが増えて、適切なケアプランが作成できる介護基盤が整備されることが必要でしょう。

わが国の社会福祉は。いま大きな転換点にあります。社会福祉を必要とする人たちが増えてきたからです。高齢者のみならず、障害者そして児童という社会福祉の主要な対象分野全体で利用者のニーズが増加しています。一方、供給側の態勢はどうだったのでしょうか。従来の福祉制度は、サービスの実施の有無、提供主体の決定、供給量等について行政庁が一方的に決定する仕組みでした(措置制度)。行政処分の一種です。措置の対象者(利用者)が事業者を選択できず、事業者と措置の対象者の間の権利・義務関係が不明確だといわれていました。

措置する場合、具体的には保育所や特別養護老人ホームなどの入所者を決定する過程が不明朗だともいわれています。定員に空きがあれば、そんなに問題はありません。問題は空きがない場合です。大都市部での保育所や特別養護老人ホームには、入所を待つ多くの人がいます。そこで、数年前から社会福祉の基礎構造改革に向けた検討が「中央社会福祉審議会」で検討され、二〇〇〇年の通常国会で「社会福祉事業法」の改正が行われました。福祉の供給側を需要に合わせようという試みがようやく始まったのです。

厚生省の「中央社会福祉審議会・社会福祉構造改革分科会」は、一九九八年六月「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ及び追加意見)」を発表しました。社会福祉の基礎とは、わが国の社会福祉を形成してきた社会福祉の供給構造のことを指します。主に、①社会福祉事業の範囲の見直し、②社会福祉法人の在り方、③サービス利用の方法(措置制度の見直し)、④権利擁護、⑤施設整備の在り方、⑥サービスの質と効串性の確保などに分かれます。その中で改革の必要性を次のように述べています。

2014年7月4日金曜日

土地信託構想とその展開

戦後は、戦前と異なって、賃貸用の住宅は、主に政府、住宅公団および地方自治体とその外郭団体などの公的な機関が建築するものが主流となり、民間では各企業が従業員のための社宅を整備するのを除けば、賃貸より自分の持ち家を取得する方に力が注がれてきました。自分の家を持つことはもちろん結構なことですが、すべての人がそうすることができるわけではありません。一方、公営のアパートも戸数に制約があって抽選に当たらないと入居できないのが普通ですし、官舎や社宅に入れるのも当然その勤務員に限られます。そこで、良質でしかも家賃もあまり高くない民営の、いわゆる貸家が要求されるわけです。

ところが、地価や建築費が昭和四十年代になって非常に上がったため、土地から買ったのではなかなか貸家の採算がとれません。反対に昔から、都市の中に土地建物があって、家屋が老朽になったままの地主や、最近発展してきた都市近郊に農業に適さなくなって農地を遊ばせたままの地主もいます。これらの地主で、土地は売りたくないが自分で貸家を建てる資金もないし、また不動産についての知識や経験も乏しいという人が少なくありません。こういう人のために信託を使って、賃貸住宅を建てようとするのが土地信託構想の発端でした。

その仕組みは以下の通りです。まず地主から土地の信託を受けます。これを整地して賃貸住宅を建築します。このとき、地主が資金を持っていれば、それで問題はなく、昔からの不動産の管理信託の形になるのですが、おカネが足りないとき信託会社は外部または金銭信託などで集めた資金を、この信託財産に融資して建築することになります。そうして、これを賃貸し、賃料から元利金や諸経費を払って、あとの収益を地主に分配しようというものです。土地の有効活用の相談、企画から所要資金の調達、建物の建設、管理に至るまで総合的に取り組むこの土地信託構想は、民間レベルでの住宅供給の促進に大いに役立つものとして各界で関心を呼びました。

ところが、依然地価の上昇は著しく、土地は単に持つたまま値上がりを待つ方が得策だという地主の意識が強く、これに加え、用途がもっぱら賃貸住宅に限定され採算面で妙味が少なかったこと、そして信託会社が借り入れを起こし建物を建設、運営することは、いわゆる事業信託(信託会社が受託した財産でいろいろな事業を経営すること)として許されるのか否か明確な結論が出ていなかったことなどから、その実績はわずかに留まりました。現実には、事業信託の問題もあり、地主が借り入れをして建物を建設、これを追加信託する不動産管理信託に近い仕組みが採られました。

2014年6月19日木曜日

都市労働者の所得水準

国営重工業の拡大の原資は、低価格食料の確保とシェーレであり、それゆえ農民と都市労働者の消費はいちしるしい低水準におかれてきた。これを反映して、軽工業品の消費市場は発展をみせることはなかった。軽工業部門はシェーレを通じて膨大な利潤をえたとはいえ、その利潤のほとんどは工商税とともに国庫に上納され、これが重工業拡大の原資とっていった。重工業優先政策の帰結である。

農民と都市労働者の所得水準は低く、軽工業の育成は軽視され、圧倒的な規模で投資拡大をつづけたのが重工業であった。その製品販路を自部門の内部で自己循環させるより他に方途はなかったのである。国営企業相互間で流通する生産財は、価値法則の作用する「商品」ではなく、「物資」であった。

各種の国家物資供給部門がその供給の任にあたった。鋼材、工作機械などは国家統一分配物資であり、コークス、鉄合金なども主管部門の管理物資であった。これらは「商品」とは峻別される「物資」として、重工業部門内を低価格で自己循環していた。その意味で、重工業部門は、中国経済における非効率の「島」を形成していたということができよう。

重工業化を正当化し得る論理は、重工業部門(生産財部門)への傾斜投資が初期的には消費水準を抑圧するものの、長期的には他の代替的戦略に比較して、より高い消費水準を国民に保障するというものである。しかし、重工業部門の圧倒的な非効率性とその自己循環的性格は、その期待を明らかに裏切るものであった。

2014年6月5日木曜日

脳・神経系のかかわり

脳、神経系が血圧調節に非常に重要なことは、ストレスによって血圧が容易に上昇するとによっても知られています。この時、脈拍数も増加し、動悸を訴えることも少なくありません。これは交感神経活動が高まることによります。一般に神経のはたらきは、生体におこる急な変化に対応するものであり、血圧が短期間のうちに上がったり下がったりするのには、神経活動か密接に関与しています。

またストレスが長く続くと高血圧症になるかどうかという問題がありますが、人間の場合には明確な結論が得られていません。しかし動物では疼痛刺激や騒音を聞かせるなど、慢性のストレス状態におくと血圧が上がってくるという実験結果か報告されています。人間の場合もストレスは交感神経の緊張を高めることは確かですから、血圧上昇を助長するであるうと推測されます。

血圧を調整する神経(調圧神経)は血圧が上がるときにそれをおさえ、下がるときには下げ幅を小さくするように働いて血圧の変動幅が小さくなるように調整します。しかし高血圧状態がつづくと、調圧のセットポイントが正常よりも高い血圧レベルにシフトしてしまい、高い血圧をあたかも正常の血圧のように感知するようになります。

その結果、調圧神経は血圧を下げるようにははたらかず、むしろその血圧を維持するように働きます。動物実験でこの調圧神経を切除すると、高血圧症が起こります。この高血圧症は動揺が大きいことか特徴ですが調圧神経は、内頚動脈と外頚動脈が分かれる部位にある頚動脈洞や大動脈弓部などに分布しています。

2014年5月22日木曜日

エリートと庶民

私か通い慣れた中・東部ジャワ、とくにジョクジャカルタ市のあたりは、ジャワ族の人口が絶対多数を占める地域である。農村ではもちろんのこと、都市でも地元民どうしの日常会話はジャワ語で行われることが多い。同じジャワ島でも、その西北端に位置する首都ジャカルタの住民構成はこれとはまるで違う。

ふつうジャカルタの先住民と考えられているのは、独特のマレー語方言を話すブタウィ族と呼ばれる人々である。しかし、全国各地から移住者を受け入れてきた結果、今日のジャカルタの人口は大小多数の種族の混成と化している。また異種族間の通婚も多く、その結果生まれた子供は特定の種族に対する帰属意識を失う場合も珍しくない。その結果ジャカルタでは、特定の地方語ではなく、ブタウィ語の影響を多少受けたインドネシア語が巷に飛び交う日常語となっている。

ジャカルタでの私の勤務先となったインドネシア大学日本研究センターでも、スタッフの種族別構成は多様だった。教職員あわせて三十数名のうち、人数がいちばん多いのはジャワ族だったがその比率はせいぜい三割程度、しかもそのうち何人かはジャカルタ生まれでジャワ語は話せないのである。インドネシア大学のキャンパスのある首都近郊のデポック市で、私はこののち一九九九年に日本研究センターの研究員たちと、新興住宅地住民九〇〇世帯ほどを対象とする社会学的調査を行った。その調査結果を見ても、種族別人口比率は、ジャワ族三四パーセント、ブタウィ族二六パーセント、スンダ族一六パーセント、ミナンカバウ族八パーセント、バタック族三パーセント、その他一三パーセントとバラエティに富んでいた。

ジャカルタで強烈に印象づけられたことの二番目は、エリートと庶民の間の所得水準と生活様式の格差の大きさであった。第二次大戦後の高度経済成長を経る間に、農村と都市、また大企業と中小企業の間の所得や生活水準の格差が縮小し、国民全体の教育水準が高まった現代日本では、「知識人と大衆」「エリートと庶民」といった二分法で国民を上下に分類する用語法はほとんどリアリティを失った。

いわゆるバブル経済期以降、日本における社会階層間の格差はふたたび拡大または固定化する傾向にあると言われるが、その格差の程度は戦前期日本の場合とは比較にならない。しかしインドネシアでは、「エリートと庶民」という二分法は、今でも鮮明なリアリティを保持している。エリートと庶民の乖離という二極化現象はインドネシアの社会全体に共通するものだが、ジャカルタではそれがとくに視覚的にいちじるしい。たとえばそれは、都市社会の空間的構成に端的に現れる。

2014年5月2日金曜日

民主党逆風は中国べったり路線

≪もはや組織政党の体なさず≫

菅直人首相(民主党代表)が20日、小沢一郎元党代表に、政治倫理審査会への出席を求めたのに対し、小沢氏はこれを拒否した。菅首相は応じない場合、政倫審で出席を求める議決をせざるを得ない旨を述べたが、小沢氏はそれにも「出席しない」とはねつけた。

これが、鳩山由紀夫前政権の失政の責任を負って幹事長を辞し、「一兵卒」となった政治家がとる行為なのか。そもそも、民主党は組織政党といえるのか。

国民世論の大多数は小沢氏が国会で説明すべきだと考えている。12月14日付の産経新聞では、70・5%が「国会招致すべきだ」と答え、85・9%が小沢氏は招致されたら「応じるべきだ」と答えている。同日付の朝日新聞では、「国会で説明すべきだ」が68%、小沢氏をめぐる民主党の対応を「評価しない」が83・8%に及んでいる。同月20日付毎日新聞も「国会で説明すべきだ」が77%に達している。これに対し、小沢氏は「やましいことは一点もない」「私が政倫審に出席すれば、その先の国会運営に展望が開けるのか」などと開き直っている。“小沢問題”は国会運営の一コマではなく、小沢氏の政治家としての倫理観を問う問題だ。一点の非もないなら堂々と出席すべきである。

小沢氏は最近の民主党凋落(ちょうらく)で現執行部を非難しているが、小沢氏の行動こそがその一因だ。茨城県議選、福岡市長選など地方選挙は民主党のベタ負けで、党勢回復もおぼつかない様相だが、握手をして回る小沢式選挙運動が通用する場面だとでも思っているのか。

≪外交とカネで風はやんだ≫

風がやんだのである。やんだ理由は明白。カネと外交である。

鳩山政権は75%の支持率からスタートし、半年で20%台まで急落した。最大の原因は日米関係を空洞化させ、国民を不安に陥れたことだろう。日米同盟は、鳩山氏の「普天間は県外」、小沢氏の「米軍のプレゼンスは第7艦隊で十分」という発言で内実が大いに毀損(きそん)した。支持率急落で「これでは選挙にならない」と急遽(きゅうきょ)、菅政権に切り替え、支持率は65%程度に戻したものの、今や20%そこそこにまで落ちている。

落ちた原因は、内政で見るべきものがないのもさることながら、中国に阿(おもね)りすぎた結果だと断じてよい。中国は日米離間の隙をみて尖閣諸島沖の漁船衝突事件を起こした。その犯行の証拠ビデオを、仙谷由人官房長官が中国側の要求で“密封”した。鳩山氏の東アジア共同体構想、小沢氏の600人訪中団。中国べったり路線は国を危うくすると国民は知ったのだ。

たまたま12月18日発表の内閣府の「外交に関する世論調査」で、「日中関係は良好ではない」との回答が急増、過去最悪の9割近くになった。中国に「親近感を感じない」も、8割近くに達した。

米国離れをして中国に近づき、日米中の「正三角形外交」を形成する。あるいは困ったときには国連に泣きつく「国連中心主義」などというものは、全く成り立たないことが分かった。民主党外交への不安が支持率を下げていると、小沢氏は認識すべきだろう。

原口一博前総務相は小沢氏を政倫審に出すべきではない理由として「推定無罪」と言っていたが、問題のすり替えというものだ。強制起訴は政治資金規正法違反(虚偽記載)事件であり、新生党、新進党を解党した際の政治資金は国費であり、それがなぜ小沢氏個人のものにされたのかはぜひ、聞かねばならない。原口氏は「民主党を政権に導いた恩人は守らなければならない」旨も述べている。政治に個人的な恩情を持ち込むとは何事か。こういうのは政党ではなく、「徒党」というのである。

≪今角栄の「一兵卒」民主に暗躍≫

小沢氏は現代で最も田中角栄的生き方をしている人物である。政界はこの20年、“角栄的なるもの”を成敗するために、政治資金規正法を変え、選挙制度も変え、派閥政治を退治してきた。小沢氏は正しいことが立証されなくとも「オレは正しい」と強情を張る点で、田中角栄氏そっくりだ。

角栄氏は自民党を離党し、周辺居住者となっても自民党内に140人に及ぶ田中派を養った。ただの無所属議員になれば、検察に対して無力になると信じていたようだ。小沢氏が民主党と合併したときの手勢は30人。その後、選挙のたびに手勢を増やして今や150人。小沢氏は党内党の如(ごと)き集団をこしらえた。この集団はいま、検察への盾になろうというのか。

両院議員総会の開催を迫って党執行部を取り替えようという勢いだが、頭目の小沢氏は来年1月には強制起訴されることが決まっている。よしんば司法の場で無罪になっても、国民は小沢氏を卑怯(ひきょう)で潔くない人物とみるだろう。

中曽根康弘氏、竹下登氏などは、疑惑をもたれれば大物政治家の信用が傷つくと自覚して、国会の場でそれを晴らしてきた。小沢氏は倫理感に欠けている点で党内実力者たる資格すらない。こういう小沢氏が暗躍する民主党に将来はないと知るべきだ。

2014年4月17日木曜日

消費者の輸入構造の変化

注目すべきことは、一九七五年から一〇年も経った一九八五年において、なおこの構造がほとんど変化していなかったという事実である。いな、多くの産業において輸入依存度はさして上昇をみせず、他方、輸出依存度は上昇したのである。

最大のシェアをもつ機械工業、輸送機器のふたつにおいては、この十〇年間に輸入依存度はそれぞれ十〇・九%から十〇・五%へ、八・六%から十〇・五%へとわずかな増加を示しただけであり、輸出依存度は三四・八%から五一・六%へ、六〇・〇%から八九・二%へと大きく変化しすなわち、この二産業の純輸出依存度(輸出依存度マイナス輸入依存度)には激しい増加が観察される。

「フルセット」型の産業構造には、一九八五年以前においてさしたる変化はなかったのみならず、むしろその傾向は、一九七五年からの十〇年間に強化されたのである。一九八〇年代にしばしば論じられた、日本の貿易収支の構造的黒字不均衡の「構造」を、私は右に述べたスカイラインマップにあらわれる、フルセット型「構造」と理解している。

しかしこの構造は、一九八五年九月以降の「超円高」局面にいたってはじめて本格的に崩れた。その意味で一九八〇年代の後半は画期である。一九八五年以前、二五~二〇%水準を長らく推移してきた日本の総輸入に占める工業製品の比率が、円高後のわずか七年間に二〇%に近い急上昇をみせたことが、その変化を示す端的な証拠であろう。また日本企業の一九八六年以降の「グローバリゼーション」、すなわち地球的規模での事業展開は、これがアウトソーシングを主流としたことによって、企業の投入構造にも大きな変化を与
えた。

所得が一単位増加した場合に誘発される輸入単位数は、輸入の所得弾力性と呼ばれる。一九八六年に資本財、消費財ともに、六前後であったその値は、一九九〇年には前者が二・八、後者が二・三にまで高まった。輸入の所得弾力性のこのような短期間における急上昇は、かつて経験したことのないものであった。この数値の変化のなかに、一九八六年以降の日本の企業や消費者の輸入構造の変化が反映されている。