2014年8月8日金曜日

労働分配率は下げ止まる

たしかに、経営者が悪いことをしていて、それを隠匿しようとしているような状況では、透明性を求めることに意味はあるだろう。しかし、経営のプロセス全般について透明性を広範につねに求めることが、企業の長期的パフォーマンスを上げることに本当に貢献するかどうか、私は微妙な問題だと思っている。たとえば、経営統合を密かに考えている経営者が、将来への戦略を開示すべきと言われて、経営統合プランを事前に透明に語るべきだろうか。あるいは、ある役員が前任者のとった行動の結果として短期的に業績悪化した場合に、その業績の責任をとって報酬を減らされる、といういわば「けじめとしての処置」を社長がとったとする。それ自体は、あるべきことかもしれない。

しかしその「報酬削減」の事実を透明に公表することが、本当にいいことか。詳しい説明もできないままに、削減の数字だけが独り歩きして、さまざまな風評被害が起きる危険もある。もちろん、不透明を許すことによるマイナスも容易に想像できる。無能な役員が居座って、高額の報酬をもらっていることが放置される、などである。経営者のお手盛りもまた、マイナスであろう。どのような役員報酬にすべきかは、じつに状況に応じて千差万別の対応をしなければならない。そうした問題で詳しい決定。プロセスの開示を強制的に求めることは、開示後のさまざまな影響を考えると、決して得策とは言えない。開示を強制すると、ますます役員報酬を上げにくくなる方向へ作用する危険も感じる。

経営は結果責任である。役員の報酬は、企業としての結果を生み出すための経営上の手配りという経営プロセスの一部に過ぎない。その経営プロセスについて、いちいち箸の上げ下ろしを指導するようなプロセス責任の強制は、多くの場合間違っている。内部統制の強制が間違っているのと、同じ話である。役員たちは、報酬に対してではなく、経営結果に対して責任を持つべきで、その結果責任をむしろ厳しく問うべきである。

労働分配率という言葉が、新聞の経済欄に最近かなり登場する。労働分配率は、企業が生み出す付加価値のうち、人件費などとして(企業の年金負担分を含む)働く人たちに分配される金額の比率である。つまり、働く人たちの「分け前」比率というべき数字である。それが、企業が経常利益過去最高を更新する中で、過去からかなり下落し、好況と言っても上昇せずに低迷している、と報道される。それだけを聞くと、「分け前が減って可哀相なサラリーマン」というイメージをすぐに誰しも描いてしまう。

しかし、おそらくもう労働分配率は下げ止まるだろう。そして現在の水準は、長期的に日本の歴史的経緯を見ても、かなり適切なレベルだと思われる。労働分配率は人件費を付加価値で割った数字である。しかし、付加価値の定義や統計のベースの違いによって、ことなる数字が労働分配率として報告されている。ただ、どれで計算しても傾向自体は変わらない。もっとも簡単な付加価値の定義は、企業の売上げという外部からの収入から、その売上げを生み出すために企業が外部から購入したインプットの費用を差し引いたものである。購人したインプットから付加価値を生み出すために、企業はヒトとカネを使う。