2015年11月6日金曜日

唯一絶対の神との契約というタテ

西欧の「契約」には大別して唯一絶対の神との契約というタテの契約と、異なる部族や国同士が同盟を組む際の契約、国民国家を築く際の基礎となった社会契約、企業同士や企業と個人が取り交わす契約といったヨコの契約がある。そして、西欧はこの契約を結んだり破棄したりすることで文明が動くのである。これを私は「契約一再契約の法則」と名づけた。西欧では神との契約でさえ「契約一再契約の法則」が当てはまることは、改宗を見れば明らかである。イスラム教徒からキリスト教徒に改宗するとか、あるいはその逆を考えてみればよい。アッラーとの契約を破棄して新たにエホバと契約を結ぶ、あるいはその逆が改宗なのである。古代ユダヤ教の契約がイエスの出現によって更改されたからこそ、聖書は旧約と新約に分かれるのである。

神との関係でさえ「契約一再契約の法則」が貫かれるのであるから、国と国、組織と組織から人間同士の関係に至るまで「契約一再契約の法則」が貫かれるのは当然である。結婚式は神の前で契約を交わす儀式であり、離婚と再婚はまさに前の配偶者との契約を破棄して別の配偶者と契約を交わす行為なのである。だが、日本ではそもそも神との契約という観念が皆無であったがゆえに、今日に至るも契約という考えがなじまないところがある。契約を結んでも、細部は互いに誠意をもって話し合いにする、などといった美辞麗句であいまいにしておくことも珍しくない。それでも社会が動いてゆくのである。出版契約のように、本を出す前ではなく、本ができ上がってから交わす契約さえある。西欧の出版社では考えられないことである。

日本人の行動の無節操ぶりを描いたのだが、じつは西欧の人間もまた無節操という点では同じなのである。というより、人間は誰しも無節操なところがあるのが自然なのである。だからこそ、どこの国でも命を賭けて圧政や宗教弾圧と戦い、自己の信念に殉じた人を讃える美談が残っているのである。西欧人のほうがずっと節操を保っているかのように見えるのはじつはこの「契約一再契約の法則」があるからである。国際社会では、戦後ドイツ人は過去を反省しきちんと謝罪したのに対し。日本人は反省も謝罪もしていない、ということで日本人の評判はドイツ人とは比べものにならぬほど低いのは周知の事実である。