2015年4月6日月曜日

「日本中の期待」を背負い二世誕生

私の今の夢は、もっと女性が活躍できる社会にしたいということです。日本経済を良くするには女性が活躍しないといけません。働く女性は増えていますが、家庭と仕事のバランスがうまく寂れず、家庭に戻る女性も多いでしよ。女性が働きやすい環境を整えるため、女性政治家を増やし法律を変える必要があると思います。そこで同じ考えを持つ仲間と九九年に「WinWin(ウィンウブノ)」という会を作りました。会員も千人ぐらいに増え、国政選挙や知事選などで女性候補者を支援させて頂いています。こうした活動によって、公平で素晴らしい社会が作られていくと思っています。

ホアンホアンは、白黒の模様がはっきりした大柄なパンダでした。まだ四歳の時に保護されたそうです。そのせいか、七歳で上野動物園にきた時は、ちょっと神経質なところがありましたね。一方、その後やってきた雄のフェイフェイは、おっとりして大人の風格がありました。十五歳まで野生だったので、新しい環境への適応力が身に付いていたのでしょう。日中友好のシンボルとして一九七二年にやってきたカンカン、ランランのカップルは、私か七九年に都多摩動物公園から上野動物園へ転勤した直後、相次いで死んでしまいました。改めて中国から贈られたホアンホアンたちは、「今度こそ、国産の二世を」という日本中の期待を担った存在でもありました。私たちは当然、これに応えなくてはならない立場です。

珍獣であると同時に、あの愛くるしさ。大変な政治的意味合いも持っていました。緊張してもいいはずなのに、私はそうでもありませんでしたね。「やるだけやったら、後はなるようにしがならない」という考えですから。初めは自然交配を狙ってお見合いさせたのですが、これがうまくいかない。パンダの発情期は年に一度、その間の交配適期は三日ほどです。時間を無駄にできません。そこで、人工授精となりました。

実績のある中国から論文を取り寄せ、講習のために獣医師二人を派遣して、習った手順を基に二十人ほどのチームを作りました。獣医師や電気技師などからなる結構な部隊です。体格がよく似たアメリカクロクマを使って六か月間、週一度ずつ精液採取の練習もしたんですですから、八五年六月の出産はうれしかった。前日から泊まり込みで監視していたのですが、初産のためか時間がかかりパラパラしました。それが無事に生まれ、ちゃんと抱っこもしている。それだけに、二日後の「赤ちゃん圧死」は残念でした。

しかし、これで我々も、パンダの妊娠のメカ号スムなどをじっくり学ぶことができ、翌年の再度の人工授精の成功につながります。八六年のトントン誕生です。戦後しばらく、日本の動物園は何よりも動物を見せる所でした。それがだんだん、「動物を繁殖させて種を守り、生態系を知る所」という意味合いを強めていきます。私の動物園人生は、正にその変化とともにありました。パンダの誕生は、その一つの物語でもあるわけです。生まれは大阪市東成区の街中でしたが、心に残る故郷は生駒山のふもとの縄手村(現東大阪市)です。戦争が激しくなって、私か八歳の時に家族で疎開、戦後もそこで暮らしました。生き物が元々好きで、魚屋の店先までじっと見入るような子でした。それが田舎に移ったとたん、虫や鳥などの小動物に囲まれる毎日です。疎開直後にしばらく住んだ山の中の家でことは言いません。