2015年1月9日金曜日

GHO仕込みの新知識普及目指す

往診に出かけると、母親の冷たい乳房をまさぐっている赤ちゃんがいたり、冷たくなりつつある遺体から、隣の病人の温かい体にシラミの大群が移動していたり。まさに、「地獄絵」としか言いようのない光景でした。敗戦から一年後、待ちに待った日本への引き揚げが始まりました。義理の母とその母、乳飲み子も含む弟妹など、家族、親類の十二人。「私か、みんなを無事に連れ帰らなければ」と悲壮感でいっぱいでした。

それというのも、日本人難民救済会の会長も務めていた父が、中国共産党の八路軍に逮捕されてしまったからです。父は脱走しましたが、隠密行動で帰国しなければなりません。共産勢力は、医者や看護婦狩りもするし、資産家をリンチする。狂気の時代でした。ハルビン駅をやっと出発した貨物列車は、途中で何度も止まります。そのたびに、「運転士へめ貢ぎ物はないか」と代表が金目の物を集めて回ります。屋根がない貨車で、一晩中、雨に打たれたこともありました。祖母と子供たちを守るためシート代わりの毛布を広げ、私たちが引っ張り続ける。雨と涙でびしょぬれの顔を、ぬぐうことさえできません。ぬれたおむつを当てられたままの妹は、泣き声も上げなくなりました。ハルビンを出て三十六日、全員生きて帰国できたのは奇跡のようでした。父も無事でした。「残された人生は、人の役に立てばよい」というのが私の信条になりました。

生まれ故郷の滋賀県長浜市に戻って半年ほど寝込んだ後、内科医院を開業しました。そうしたら、GHQ(連合国軍総司令部)の滋賀軍政部から、「衛生顧問にならないか」と声がかかったのです。英語ができる医者として、通訳などを頼まれていた縁でした。大津市に行き、米国の公衆衛生学を学びながら病院や学校を衛生指導で回りました。公衆衛生学や予防医学という学問があることを初めて知ったのです。刑務所も回りましたがショックでしたね。外では食べる物に困っているのに、塀の中は米国流の管理で、一日二千四百キローカロリーのメニューがケースに展示されていて、おふろも週一、二回入れる。考え込んでしまうほどの落差でした。

この後、長浜保健所で所長代理になりましたが、新しい知識が役立ちました。子供たちを相手に毎週土曜日、「衛生学校」を開いたんです。当時は回虫症が非常に多かったので、「自分のウンチを持ってきてごらん」と言って、顕微鏡で見せながら「これが回虫の卵なのよ」と説明したり、歯垢を墨汁で染めて虫歯の原因となる微生物を見せたりしました。五一年、保健所長になる研修のため東京の国立公衆衛生院に行ったことが縁で、そこに入っていたロックフェラー財団アジア事務所に勤めることにしました。学位取得や留学の道が開けそうだったからです。夫になる人とも公衆衛生院で出会い、五三年に結婚しました。

留学の話は、結核の痕があったのでうまくいかなくて。「よし、衛生教育をする開業医になろう」と、五六年に夫と武蔵野市で山崎医院を開きました。夫と東京の武蔵野市で医院を始めて十一年後の六七年、日本女医会の常任理事になりました。当時はまだ任意団体で、社団法人になることが一つの目標でした。会の存在を多くの人にアピールし、社会的な活動をするには、法人格が必要だと考えられていたからです。