2015年12月5日土曜日

粗放型経営の落とし穴

「四十数年の建設を経て、わが国はすでに比較的完全な工業体系を形成しており、経済の規模はかなりのものだ。しかし、生産、建設や流通などの各分野で、資源の消費が多い、資金の回転が遅い、損失・浪費がひどい、経済効率が低いといった問題が際立っている。こうした粗放型の成長方式は、当面の経済生活における多くの矛盾と問題の元凶となっている。経済規模が大きくなるにつれて、大量の資源消費によって成長をはかることは不可能であり、それは長続きしない」

これは、私か文化大革命の頃から気づき、中国の人に言い続けてきたことと同じである。粗放型経営を根本的に改めるためには、まず企業の経営幹部はもとより、職場の作業員が変わらなければならない。しかし、多くの国有企業にとっては、それは難しい。社会主義経営では、本来倒産はなく、労働者の失業はない建前になっていた。資本主義経営では、いい加減に経営し働いていたら、企業はつぶれ自分も失業するという恐怖がある。その恐怖が、まともな経営と作業ぶりの、かなりのモチベーションではあるまいか。そうだとすれば、倒産も失業もない社会では、どういうモチベーションで人は働くのかという問題が生じる。社会主義はそれを発見できなかった。
 
そうなると機械が時代遅れになろうと、各機械・装置のバランスがどうであろうと、どう作業しようと、人々は無関心に十年一日のように同じ職場で同じ仕事をくりかえし、それで給料を受け取ることになる。中国共産党の首脳部は、最後に、この根源的な壁にぶつかったのである。紡績業などでは、四〇〇〇万錘に及ぶ設備を持っていたのであるが、その大部分は一九六〇年代以前に設置されたもので、しかも、そのなかでも、五〇年代以前の機械が三分の一を占めていた。これでは生産管理のしようもない。

このような機械を思い切って新しい機械に変えなければならないが、それは職場が拒んだ。労働者は長年なじんできた機械のほかは何も知らず、機械が新しくなれば、それについて行くことが出来ないからである。しかし一九九八年一月に、ついに紡績総会の会長は、今後三年間で綿紡錘一〇〇〇万錘を廃棄し、一二〇万人の従業員を一時解雇する方針を明らかにした。

2015年11月6日金曜日

唯一絶対の神との契約というタテ

西欧の「契約」には大別して唯一絶対の神との契約というタテの契約と、異なる部族や国同士が同盟を組む際の契約、国民国家を築く際の基礎となった社会契約、企業同士や企業と個人が取り交わす契約といったヨコの契約がある。そして、西欧はこの契約を結んだり破棄したりすることで文明が動くのである。これを私は「契約一再契約の法則」と名づけた。西欧では神との契約でさえ「契約一再契約の法則」が当てはまることは、改宗を見れば明らかである。イスラム教徒からキリスト教徒に改宗するとか、あるいはその逆を考えてみればよい。アッラーとの契約を破棄して新たにエホバと契約を結ぶ、あるいはその逆が改宗なのである。古代ユダヤ教の契約がイエスの出現によって更改されたからこそ、聖書は旧約と新約に分かれるのである。

神との関係でさえ「契約一再契約の法則」が貫かれるのであるから、国と国、組織と組織から人間同士の関係に至るまで「契約一再契約の法則」が貫かれるのは当然である。結婚式は神の前で契約を交わす儀式であり、離婚と再婚はまさに前の配偶者との契約を破棄して別の配偶者と契約を交わす行為なのである。だが、日本ではそもそも神との契約という観念が皆無であったがゆえに、今日に至るも契約という考えがなじまないところがある。契約を結んでも、細部は互いに誠意をもって話し合いにする、などといった美辞麗句であいまいにしておくことも珍しくない。それでも社会が動いてゆくのである。出版契約のように、本を出す前ではなく、本ができ上がってから交わす契約さえある。西欧の出版社では考えられないことである。

日本人の行動の無節操ぶりを描いたのだが、じつは西欧の人間もまた無節操という点では同じなのである。というより、人間は誰しも無節操なところがあるのが自然なのである。だからこそ、どこの国でも命を賭けて圧政や宗教弾圧と戦い、自己の信念に殉じた人を讃える美談が残っているのである。西欧人のほうがずっと節操を保っているかのように見えるのはじつはこの「契約一再契約の法則」があるからである。国際社会では、戦後ドイツ人は過去を反省しきちんと謝罪したのに対し。日本人は反省も謝罪もしていない、ということで日本人の評判はドイツ人とは比べものにならぬほど低いのは周知の事実である。

2015年10月6日火曜日

「難民条約」の目的

一九五一年に作成された「難民条約」は、国連難民高等弁務官制度とともに国際的な難民保護制度の主柱の一つであるというだけではなく、難民条約は、ある意味ではより基礎的である。難民条約は、その加入国に対して、難民保護に関する様々な事項について一定の義務を課している。難民保護は、結局のところ、各国がその領土に、永続的にまたは一時的に受け冬れることに始まるのであって、UNHCRの任務がいくら重要だといっても、それは、各国による保護の調整と、せいぜい、とりあえずの物質的援助を行なうことができるにすぎない。国連は、各国に対して、その領土に難民を受けいれるよう、命令したり、強制することはできないのである。

民条約は、難民保護のための「マグデ・カルタ」である、としばしばいわれる。そのようにいわれるだけの重要な原則を、難民条約は含んでいる。しかし、ジョン英国王が署名した本当のマグナパカルタが、民主主義の、完成された諸原則であるという理由によってではなく、国王の権力に対する封建貴族の抵抗の論理が民主主義の後の発展の源流となったという理由で、今日高く評価されているのと同様に、難民保護のための、この「マグナ・カルタ」も、難民保護に関する完成された諸原則の体系ではなく、より整備された難民保護原則が、これを基礎として今後、発展することが期待されるのである。見方をかえていえば、難民条約には、なお様々な問題点が残っている。

世界全般の状況をみると、迫害を理由とする難民ばかりではなく、内戦、内乱、深刻な政治的混乱、極度の貧困、飢餓状態など様々な理由で転々と移動する難民が生じている。実際に生じた多数の難民が、必ずしも迫害を理由とする難民ではないと推察される場合でも、難民条約への加入がしばしばで国際会議の結果、未加入国に呼びかけられるのも、難民保護活動についての、難民条約による精神的な支えが期待されているからである。

一九九〇年八月末現在で、難民条約または難民議定書の両方、またはいずれか一方に加入している国は、一〇七力国に達している(両方に加入している国一〇〇力国、難民条約だけに加入している国三力国、難民議定書だけに加入している国四力国。巻末付表参照)。他方、ユーゴスラビアとハンガリーを除くソ連・東欧諸国、日本、フィリピン、中国と中近東の一部を除くアジア諸国、多くの中米諸国が、現在も未加入のままである。

難民条約は、UNHCRの他、西側諸国を中心とする二六力国の政府代表、二九の非政府組織(NGO)代表と二つの国連専門機関によって作成された。各加入国が条約実施についてUNHCRの監督に服することが定められていることから示唆されるように、難民条約は、難民高等弁務官制度と制度上、車の両輪のごとく密接な関係におかれている。また別の見方をすれば、両者は共通の政治的背景のもとに成立した。

すでに説明したように、UNHCRの制度では、その発足の当初、第二次大戦前からの難民と戦後のソ連・東欧難民が、その保護の主たる対象とされた。この制度でも、難民条約でも、保護の対象として「迫害をうける者」が掲げられているが、西側諸国政府の見方によれば、ソ連・東欧では、人々が祖国を脱出せざるをえなくなるような「迫害」が行なわれている、というのであった。このような政治的見方が、「迫害」とトう抽象的な、しかしまた普遍的な言葉のオブラートに包まれた。

2015年9月5日土曜日

金融界の国際標準

純血主義の限界をやっと悟ったのか、ようやく邦銀のなかにも、外資系で成功した専門家を役員に迎え入れたり、金融工学の権威である大学教授を招聘したりして投資銀行業務に本格的に取り組む動きが見られるようになった。しかしその程度では、とうていバルジブラケットの投資銀行と対抗できるレベルに達したとは言いがたい。

だが、投資銀行化とは、単なる金融技術の問題ではない。C氏が言うように、日本の金融機関が、これまで体験したことのない異文化集団を抱えこむことを意味する。とすれば、投資銀行化の成否は、「企業文化を米国型に変えること」ができるか否かを問うことでもある。それは可能なのか。また、そうすべきなのか。問題の広がりは金融再編の行方をうらなう次元にとどまらない。投資銀行のカルチャーは、今日、金融界の国際標準とされる英米流の経営システムを極限にまで推し進めたものだからである。

私が、短い間、身を置いた米国の投資銀行ソロモンの物語から始めよう。年末近くのホテルの宴会場。バンドの生演奏が華やかな雰囲気を高める。テーブルにはワインと料理が並び、スタッフの面々は、すでに相当アルコールが入っている。やがて壇上に会長が登り、次々と新任のマネーシングーディレクターの名前を読み上げる。

呼ばれた方は紅潮した面持ちで壇上に駆け上がり、会長と握手して並ぶ。皆、およそ三十代である。そこへ彼らの秘書たちが花束を捧げ、あまり熱狂的とはいえぬ拍手がわく。昇進できなかったスタッフ、もともとその望みのない事務方が自棄気味にグラスをあおる。会長に促されて、昇進組は一人ずつ挨拶を始める。「これで彼女が欲しがっているポルシェが買えます」

九〇年夏、冒頭に記したホアーゴベットの「首切り」を終え、会社の期間損益が黒字に転化したので、そろそろ引退して大学の非常勤講師の口でも探し、静かな生活を送りたいと願っていた私に、米国の投資銀行ソロモンから、東京に銀行を作るので手伝ってくれ、というアプローチがあった。

2015年8月6日木曜日

バンカメリカとネーションズーバンクの合併

バンカメリカは、七〇年代にはシティ、チェースーマンハッタンと並ぶ米国の三大銀行であった。当時はマネーセンター・バンクとして、金融のあらゆる分野に進出を図り、全世界に支店網を築いた。しかし、第一章で述べた例にもれず、ラテンアメリカ向け、LBO、不動産などの融資で巨額な不良債権を発生させ、八〇年代後半は赤字を計上、危機的状況となった。

そこで経営方針を劇的に転換して、カリフォルニアの中堅・中小企業や個人向けの銀行に変身すべく、大規模な内外店舗の閉鎖、証券子会社の売却などのリストラを徹底的に行う一方、邦銀なとがら資金調達を行い、ようやく危機を脱した。その後の収益の回復は著しく、規模の利益を求めて九一年に同じ州の大銀行セパック、九四年にイリノイ州の名門コンティネンタル銀行などを吸収して再び拡大路線に転じていた。

一方の目立たぬ存在であったネーションズ・バンクは、八〇年にはわずか資産一〇〇億ドルのノースーカロライナーナショナル銀行(NCNB)に過ぎなかったが、その後サウスーカロライナやフロリダの銀行などを次々と合併して東南部の有力銀行に成長し、かつてチェース・マンハッタンをも買収の標的にしたほどである。

バンカメリカとネーションズーバンクの合併の結果、二十六州に約五千の活動拠点をもつ全国規模の大銀行が誕生することになった。五千~八千人のレイオフを含む合理化により最初の二年で税引き前で二〇億ドルのコスト削減を達成できるという。両者に共通する特徴は、個人・中小企業を顧客とするリテールと、中堅企業を顧客とするミドルマーケットに焦点を合わせて経営資源を集中し、必要なインフラを整備し、規模の利益を合併や買収によって追求してきたことであろう。

反面、大企業向け金融や投資銀行業務、国際金融業務では、必要最小限の参入に止めてきた(バンカメリカの場合は、業績の回復とともにこの分野を復活させていたが)。証券業務に関しては、ネーションズが九八年に買収したモンゴメリー・セキュリティーズと、九七年にバンカメリカが買収したロバートソンースティーブンスが、ともにハイテク産業の新規公開に強いことも興味深い。

2015年7月6日月曜日

三つの問題の根幹にあるものは

アメリカは産業構造の転換を世界で最も早く経験している国である。そのため、それが雇用に与える影響もまた大きい。新しい産業が次から次へ生み出されているところはよいが、それが国全体の雇用に対して役立っていないところが問題だ。このところアメリカ企業の株価はかなり戻してきている。しかし人々はあまりハッピーになっていない。企業の利益が向上しても、肝心の生活がよくならなければ意味がない、ということだ。長年、世界をリードしてきたアメリカ。アメリカはいまだすごい国である。しかし一方で、貧富の差、財政赤字、失業率の三つの問題が重くのしかかっている。まずはこの三つの問題について概観してみた。このところアメリカ経済について明るい報道がされることもあるが、まだまだ根本の問題は解決には程遠い。

実はこの三つの問題の中で「貧富の差」の問題がその中心にある。そしてほかの二つの問題も、根っこをたどると貧富の差の問題に行き着くことがわかってくる。現在、アメリカには誰が見ても明らかな貧富の差が存在し、それがさらに悪化している傾向がある。なぜそれが放置されているのか、そしてなぜ我々はそれを悲観的に考えなければならないのか。これについては解読していくことになる。その前に、ヨーロッパの現状について確認しておきたい。ヨーロッパの金融問題はこのところのビッグーニュースとしてマスコミにも大きく取り上げられてきた。しかし、その背景にある事象まで含めて考えないと問題の本質には迫れない。そのところを見ていきたい。

次にヨーロッパの金融危機について、これが起きた背景にはヨーロッパの持つ多様な文化と歴史がある。ドイツを中心とするヨーロッパ北部の国々とギリシャなどの南欧との間には大きな断絶があり、それが今回の問題の遠因となっている。日本では今回のヨーロッパの問題は経済問題とだけとらえがちである。そういう報道のされ方がなされることが多いし、お金の話は人の頭に入りやすいということもある。確かに今の時点ではお金の問題が圧倒的に深刻なことは間違いない。でも、実はこれは単に経済にとどまらず、外交、軍事さらには文化にまで及ぶ壮大な「ヨーロッパ統一への道」の中での一場面と見るべきなのだ。ヨーロッパ統一を進めようとしたところ経済面で大きなひずみが生じ、それがヨーロッパ全体さらには世界全体に波及する大問題になった、ということだ。

ヨーロッパ統一は、ヨーロッパの人々にとって長年の夢だった。その第一の理由は「もう二度と戦争を起こしたくない」というものである。日本人である我々にはなじみにくいことかもしれないが、有史以来ヨーロッパでは各地で戦争を繰り返してきた。「ヨーロッパの歴史は戦争の歴史」とも言えるほど戦争が多発していたのだ。あれだけ狭い土地に多様な民族、言語、文化、宗教が詰め込まれているのだから当然、と言ってよいかもしれない。特に20世紀になって起こった第一次と第二次の二つの世界大戦はヨーロッパの人々の心に深い傷あとを残した。二つの世界大戦はどちらもヨーロッパが起点となり、主戦場となったものだ。

第一次大戦では、フランス、イギリス、イタリアはそれぞれ100万人以上、ドイツは250万人もの犠牲者を出した。第一次大戦のときは日本ではあまり大きな犠牲がなかったので、我々は見過ごしがちであるが、ヨーロッパでは深刻な被害を受けていた。そして第一次大戦後に世界大恐慌が起き、ヨーロッパでは共産主義とファシズムが台頭した当時のヨーロッパで「民主主義が生き残ると考えることは困難だった」とシュロモーアヴィネリ(政治学者)は言う。実際、ファシズムの消滅にはもう一つの大戦が、共産主義の崩壊にはさらに半世紀近くの年月が必要となる。

2015年6月5日金曜日

みなが安心できる暮らしを

日本の金融業は、製造業に比べてこれまで国際競争力に乏しかった。旧大蔵省の護送船団方式で守られていたからである。今後は外資と同じ条件で対等に戦わなければならないが、日本人である限り、すべてに優先して、金のことばかり考えることかはたしてできるのだろうか。とても危ういように思う。融資した企業か赤字で立ち直り不可能とみれば、アメリカの銀行なら、会社をつぶしてできるだけ多く資金を回収しようとする。日本の銀行は、百貨店「そごう」やスーパー「ダイエー」のように、つぶしたらそのもとで生きているたくさんの企業の連鎖倒産が起こることを心配する。なるべくみんなを生かして、被害を最小限にとどめようとする。

アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン前議長もこの違いをはっきり証言している。彼が当時の宮沢蔵相と日本の銀行の不良債権問題をめぐって会談した際、アメリカの八〇年代の同様な不良債権問題にあたっては、整理した貯蓄金融機関の担保不動産を整理信託公社が安値で売り、不動産市場を動かしたことで問題を早期に解決できたことを宮沢蔵相に話したところ、宮沢蔵相は、それは金融機関の破綻や多くの失業者を生むから日本のやり方ではない、と回答したという。アメリカの銀行は、金のために企業を殺すことをいとわないが、日本の銀行は、会社を殺せない。ちょうど「ペニスの商人」と同じだ。相手を殺してまでも、金を回収するのか、情けをかけるのか。

徳や情を優先する日本人は、同じ土俵に乗ったら勝ち目はない。世界を相手に日本か繁栄するためには、日本の中では日本の価値観を守り、それを堂々と主張し、貫ぎ通す堅固なる思想、信条を掲げ続ける以外に道はないのではなかろうか。さて、ライブドアの堀江元社長は、その後、自社株売却益の不正計上等の罪により逮捕され、二〇〇七年三月には東京地裁より懲役二年六ヵ月の実刑判決が下り、二〇〇八年七月の東京高裁の二審でも実刑判決か言い渡された。道義的な罪から法律上の罪まで突き進んでしまったのは、アメリカ流の株価至上主義にどっぷり浸かってしまったからだろう。また、アメリカ流儀に徹してライブドアに資金を工面したリーマンーブラザーズは、ご存じのとおり、二〇〇八年九月に経営破綻し、今回の世界的金融危機の引き金を引いた。これは偶然の一致ではない。

個人の立場に立った場合、わたしたちのもっとも基本的な望みは満足のゆく暮らしを送ることだろう。貧しくても工夫をすればそれなりに衣食住に満ち足りる生活かできることか基本的欲求であり、それを実現できる環境を用意するのか国家の役目である。しかし、現実には、最近日々の生活に苦労する人々が多くなり、暮らしに不安を覚える人々か増えはじめている。二〇〇八年度の内閣府の世論調査によれば、悩みや不安を感じる人は一九九一年度以降一貫して急増し、二〇〇八年度では70・8%にも達するというひどい状況だ。

悩みは、自分の健康49・O%、家族の健康41・4%と健康に関するものか多いが、いちばんの大きな悩みは、老後の生活の57・7%であり、約六割が不安を覚えている。収入も大きな問題で、現在の収入に32・6%、か、今後の収入には42・4%か不安や悩みをいだいている。残念ながら現在の日本社会においては、国民、か将来に明るい希望をいだき、安心して満足のゆく生活を送る機会かどんどん遠のいている状況なのだ。安心できる生活を送れなくなった国民が増えた大きな理由の一つは、パートや派遣社員などの非正社員が雇用者の三分の一を越えるまでに増加しているからだ。非正社員は、低賃金と契約期間終了後の職の不安に悩まされている。契約期間後の職の保証かなければ、会社に対しても卑屈になり、人間は萎縮してしまう。

2015年5月11日月曜日

えこひいきが激しい

外国人上司に、嫌いな点を直してもらうには、どうすればよいのだろうか。「評価が恣意的」とか、「えこひいきをする」とあなたが感じているとして、それを上司に気づいてもらい、改めてもらうのは難しい。面と向かってハッキリ言うと、あなたと上司の関係は相当に緊張する。相手は「評価は客観的で不当な差別はしていない」とまず反論するだろうから、自分の意見を通そうとしてもJ人だけではまず無理だ。では同じ上司を持つ同僚と共同歩調を取って改善を迫るべきだろうか。実はこれも難しい。まず誰もがあなたと同じように、恣意的に評価を下げられているとは限らないのだ。高く評価されている人が、上司の基準や判定に不満があるはずがない。

では、あなたと同じように不遇感を持つ人を抱き込めばよいのだろうか。それも一筋縄ではいかない。下手をすれば上司に直訴する前に、あなたは不満分子だと上司に告げ口されてしまうかもしれない。外資系企業では、麗しい同期愛とか同僚の連帯などというものはない。組合に駆け込むなら話はまた別だが(それでも結果が出るとは限らない)、同僚に頼るのは極めて危険である。チャンスがあれば、一人でもライバルを減らそうと考える環境にあって、連帯を図ることはほとんど無謀だ。ならばどうすればよいのか。最も妥当な解答は、消極的ではあるが、「我慢して、それができなくなったら辞める」という結論になる。

日本人を軽んじる、外国人だけで集まる。次に「日本人を軽んじる、外国人だけで集まるから嫌い」、という理由について考えてみよ外国人上司が日本に赴任している理由については前節で述べたが、理由が何であれ、彼らは日本でのキャリアが成功であったと言える証が欲しいはずだ。その証を獲得するには、現地採用のスタッフの協力が必要と、彼らは分かっているはず。だから日本人を軽んじる上司にはそれとなく、または直截伝えることも無謀ではない。やんわりと伝えるか、ズバリ切り込むかは、あなたと外国人上司との人間関係による。

部下の直言を受け入れる度量のある上司ならば、そもそもこれ見よがしに日本人を無視したり軽視することはない。だが、自信があり過ぎたり、逆に赴任早々で自信があまりないタイプの上司は、言われてから初めて気がつくということもあり得る。特に海外赴任が初めてという上司は、話がしやすい同国人や外国語の堪能なスタッフと時間を過ごしがちだ。このタイプは誤りに気づいてもらうためにも、えいっと思い切って訴えるのも有効である。

しかし相手に度量がない場合、二人だけの席で相手のプライドを傷つけずに伝えるには、それなりの技術が必要だ。あなたが人間関係のトラブル処理が得意ならば朝飯前かもしれないが、相手の育った文化環境によっては、虎の尾を踏むことにもなりかねない。明らかに人種差別や現地人(この場合は日本人)軽視の姿勢がありありの場合、諌言は全く受け入れられないということもある。注意するだけ無駄、下手をすると自分に災いが及ぶということもあるかもしれない。

2015年4月6日月曜日

「日本中の期待」を背負い二世誕生

私の今の夢は、もっと女性が活躍できる社会にしたいということです。日本経済を良くするには女性が活躍しないといけません。働く女性は増えていますが、家庭と仕事のバランスがうまく寂れず、家庭に戻る女性も多いでしよ。女性が働きやすい環境を整えるため、女性政治家を増やし法律を変える必要があると思います。そこで同じ考えを持つ仲間と九九年に「WinWin(ウィンウブノ)」という会を作りました。会員も千人ぐらいに増え、国政選挙や知事選などで女性候補者を支援させて頂いています。こうした活動によって、公平で素晴らしい社会が作られていくと思っています。

ホアンホアンは、白黒の模様がはっきりした大柄なパンダでした。まだ四歳の時に保護されたそうです。そのせいか、七歳で上野動物園にきた時は、ちょっと神経質なところがありましたね。一方、その後やってきた雄のフェイフェイは、おっとりして大人の風格がありました。十五歳まで野生だったので、新しい環境への適応力が身に付いていたのでしょう。日中友好のシンボルとして一九七二年にやってきたカンカン、ランランのカップルは、私か七九年に都多摩動物公園から上野動物園へ転勤した直後、相次いで死んでしまいました。改めて中国から贈られたホアンホアンたちは、「今度こそ、国産の二世を」という日本中の期待を担った存在でもありました。私たちは当然、これに応えなくてはならない立場です。

珍獣であると同時に、あの愛くるしさ。大変な政治的意味合いも持っていました。緊張してもいいはずなのに、私はそうでもありませんでしたね。「やるだけやったら、後はなるようにしがならない」という考えですから。初めは自然交配を狙ってお見合いさせたのですが、これがうまくいかない。パンダの発情期は年に一度、その間の交配適期は三日ほどです。時間を無駄にできません。そこで、人工授精となりました。

実績のある中国から論文を取り寄せ、講習のために獣医師二人を派遣して、習った手順を基に二十人ほどのチームを作りました。獣医師や電気技師などからなる結構な部隊です。体格がよく似たアメリカクロクマを使って六か月間、週一度ずつ精液採取の練習もしたんですですから、八五年六月の出産はうれしかった。前日から泊まり込みで監視していたのですが、初産のためか時間がかかりパラパラしました。それが無事に生まれ、ちゃんと抱っこもしている。それだけに、二日後の「赤ちゃん圧死」は残念でした。

しかし、これで我々も、パンダの妊娠のメカ号スムなどをじっくり学ぶことができ、翌年の再度の人工授精の成功につながります。八六年のトントン誕生です。戦後しばらく、日本の動物園は何よりも動物を見せる所でした。それがだんだん、「動物を繁殖させて種を守り、生態系を知る所」という意味合いを強めていきます。私の動物園人生は、正にその変化とともにありました。パンダの誕生は、その一つの物語でもあるわけです。生まれは大阪市東成区の街中でしたが、心に残る故郷は生駒山のふもとの縄手村(現東大阪市)です。戦争が激しくなって、私か八歳の時に家族で疎開、戦後もそこで暮らしました。生き物が元々好きで、魚屋の店先までじっと見入るような子でした。それが田舎に移ったとたん、虫や鳥などの小動物に囲まれる毎日です。疎開直後にしばらく住んだ山の中の家でことは言いません。

2015年3月6日金曜日

変質する日本型雇用慣行

日本型の慣行といっても、それほど確固たるものではないということになると、それは案外、簡単に変化する可能性を秘めていることになる。事実、経済が変わる中で日本型の雇用システムにも変質の動きが現われてきている。

一つは、高齢化である。人口全体が高齢化すれば、当然、労働力も高齢化する。労働省の推計では、労働者全体に占める55歳以上の労働者の比率は、86年には18.4%だったが、2000年には23%となるという。年功序列型賃金体系の下では、高齢者の増加は賃金コストの増加を招く。ポストも不足してくる。高齢者は新しい職種への転換もむずかしい。年齢別の賃金カーブは次第になだらかなものになっていくであろう。

次は、企業経営の「グローバル化」の進展である。日本企業が海外に出ていき、外国企業が日本に進出してくると、必然的に日本的慣行の見直しが始まる。国内と海外で異なるシステムをもつことの矛盾が大きくなるからである。

いい例が、為替・債券のディーラーである。円高以降、東京市場に進出してくる外国銀行が急増し、日本人のディーラーを高給で引き抜き始めた。これに対抗するため、日本の銀行、証券会社もディーラーに限っては年俸制など特別な給与体系を準備しなければならなくなったのである。

技術革新などにより、経済の変化のスピードが速まっていることも雇用慣行を変わる。日本型の雇用慣行の下では、内部労働市場から必要な労働力を調達してきた。しかし、変化のスピードが速くなってくると、企業内に特殊な経験・技術をもつ熟練労働力を抱えておくことがリスキーになってくる。このため、必要な労働力を外部から調達する動きが強まっている。中途採用、派遣労働の利用、パートタイマ-の活用などの動きがそれである。

国民全体の価値観の変化もある。年齢階層別の「生きがい」の所在をみると、中高年層ほど「仕事型」が多く、若年層ほど「家庭・余暇型」が多いという傾向がある。豊かな社会への移行に伴い、国民の価値観は多様化し、仕事よりも余暇を大切にし、企業以外の生活に中心を据えるというのが今後の大きな方向であるように見える。

これまで、日本型雇用の三要素は相互に依存し合いながら存在してきた。企業内の熟練に依存していたからこそ、年功序列型賃金が存在し、企業別組合があった。終身雇用だからこそ、年功序列で若年のうちは相対的に低い賃金でも受け入れられ、企業別の組合が生まれやすかったのである。

こうして三者が密接に絡んでいるということは、なかなか簡単には変化しないということでもあるが、逆に三者を結ぶ糸が解け始めると、全体の絡み合いもまた変わってくる可能性が大きいともいえる。経済構造が激変ずる中で、日本型の雇用慣行は大きく変わろうとしているのである。

2015年2月6日金曜日

宜野湾市の中央部にある米海兵隊のヘリコプター基地

名護市に代替施設が建設されることになった米軍普天間基地は、宜野湾市の中央部にある米海兵隊のヘリコプター基地。広さは4.8平方キロで、同市の面積の25パーセントも占めている。県内に本拠地を置く第三海兵遠征軍所属のヘリ約50機、空中給油機など固定翼機15機が常駐している。その中核の第36海兵航空群は、上陸作戦支援の対地攻撃、偵察、空輸などが主な任務だ。21世紀の「国際都市形成構想」の中核となるアクションプログラムの一つとして、2015年までに米軍基地の段階的な全面返還を唱えた沖縄県の大田昌秀知事(当時)が、第一に返還を求めてきたのがこの普天間飛行場だった。

95年9月5日に起きた三人の米海兵隊員による女子小学生強姦事件を機に、沖縄で高まった基地返還運動を鎮める狙いで、クリントン米大統領が対日返還を決断した。当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使が96年4月13日の共同記者会見で発表したところによると、日米両国は「5年ないし7年以内に」全面返還することに合意した。のちに米側か普天間基地の返還と引き換えに、日本政府に対して、滑走路付きの代替基地の建設と提供を求めたため、県内移設の候補地選びが焦点となっていた。

普天間基地の返還と名護市での代替基地の建設は、96年4月の「日米安保共同宣言」に基づいて行われる沖縄米軍基地群の再編・統合の一環で、21世紀の先ざきまで沖縄をアジア太平洋地域における米軍の軍事作戦の出撃拠点として、長期的かつ安定的に確保することに最大の狙いがある。共同宣言は、「日米安保条約を基盤とする両国間の安全保障面の関係が、共通の安全保障上の目標を達成するとともに、21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であることを再確認した」と述べ、米国のアジア太平洋地域での軍事的責任(コミットメント)の重要性を改めて強調している。

2015年1月9日金曜日

GHO仕込みの新知識普及目指す

往診に出かけると、母親の冷たい乳房をまさぐっている赤ちゃんがいたり、冷たくなりつつある遺体から、隣の病人の温かい体にシラミの大群が移動していたり。まさに、「地獄絵」としか言いようのない光景でした。敗戦から一年後、待ちに待った日本への引き揚げが始まりました。義理の母とその母、乳飲み子も含む弟妹など、家族、親類の十二人。「私か、みんなを無事に連れ帰らなければ」と悲壮感でいっぱいでした。

それというのも、日本人難民救済会の会長も務めていた父が、中国共産党の八路軍に逮捕されてしまったからです。父は脱走しましたが、隠密行動で帰国しなければなりません。共産勢力は、医者や看護婦狩りもするし、資産家をリンチする。狂気の時代でした。ハルビン駅をやっと出発した貨物列車は、途中で何度も止まります。そのたびに、「運転士へめ貢ぎ物はないか」と代表が金目の物を集めて回ります。屋根がない貨車で、一晩中、雨に打たれたこともありました。祖母と子供たちを守るためシート代わりの毛布を広げ、私たちが引っ張り続ける。雨と涙でびしょぬれの顔を、ぬぐうことさえできません。ぬれたおむつを当てられたままの妹は、泣き声も上げなくなりました。ハルビンを出て三十六日、全員生きて帰国できたのは奇跡のようでした。父も無事でした。「残された人生は、人の役に立てばよい」というのが私の信条になりました。

生まれ故郷の滋賀県長浜市に戻って半年ほど寝込んだ後、内科医院を開業しました。そうしたら、GHQ(連合国軍総司令部)の滋賀軍政部から、「衛生顧問にならないか」と声がかかったのです。英語ができる医者として、通訳などを頼まれていた縁でした。大津市に行き、米国の公衆衛生学を学びながら病院や学校を衛生指導で回りました。公衆衛生学や予防医学という学問があることを初めて知ったのです。刑務所も回りましたがショックでしたね。外では食べる物に困っているのに、塀の中は米国流の管理で、一日二千四百キローカロリーのメニューがケースに展示されていて、おふろも週一、二回入れる。考え込んでしまうほどの落差でした。

この後、長浜保健所で所長代理になりましたが、新しい知識が役立ちました。子供たちを相手に毎週土曜日、「衛生学校」を開いたんです。当時は回虫症が非常に多かったので、「自分のウンチを持ってきてごらん」と言って、顕微鏡で見せながら「これが回虫の卵なのよ」と説明したり、歯垢を墨汁で染めて虫歯の原因となる微生物を見せたりしました。五一年、保健所長になる研修のため東京の国立公衆衛生院に行ったことが縁で、そこに入っていたロックフェラー財団アジア事務所に勤めることにしました。学位取得や留学の道が開けそうだったからです。夫になる人とも公衆衛生院で出会い、五三年に結婚しました。

留学の話は、結核の痕があったのでうまくいかなくて。「よし、衛生教育をする開業医になろう」と、五六年に夫と武蔵野市で山崎医院を開きました。夫と東京の武蔵野市で医院を始めて十一年後の六七年、日本女医会の常任理事になりました。当時はまだ任意団体で、社団法人になることが一つの目標でした。会の存在を多くの人にアピールし、社会的な活動をするには、法人格が必要だと考えられていたからです。